だれにでも同じひとつのことが臨む
         「コヘレトの言葉」9章1―10節の一読解

中ノ瀬重之(神父・神言会)
オリジナル ポルトガル語(PDF)版

 一家五人が海辺を散策していた。子供たちが海で水浴びをしたり砂の城をつくったりしていると、遠くに一人の老婆があらわれた。白髪混じりの髪を風になびかせ、汚れたよれよれの服を着て、ぶつぶつ言いながら砂から何かを拾い上げては袋の中に入れている。両親は子供たちを呼び寄せ、あのお婆さんに近づかないように言った。腰をかがめて何かを拾いながら通り過ぎていくとき、老婆は一家に向かって微笑みかけた。しかし、この家族は微笑み返さなかった。数週間後、子供たちが足を切らないように、砂浜のガラス破片一掃運動に献身的に奉仕しているお婆さんであることを一家は知ったのであった。
(アレシャンドレ・ランジェル)

 現代社会は、金、権力、美貌、学歴を持っている人間に価値を与え、貧しい人たちや弱者を軽蔑している。多くの場合、慈善行為も何かの恩恵と引き替えに行われたり、現世か死後の世界で神から報いを受けることを期待して行われている。今日と同じように、「コヘレトの言葉」の時代の人々も、紀元前3世紀の中頃に、神の報いを得るために善行に精を出していた。彼らは神の前に正しくあるために、律法の中でも特に不浄の規定と、献げ物による清めの儀式に関する諸法規を遵守し、律法を守ることのできない人たちを蔑視していた。律法は、社会を清い者と汚れた者、聖なる者と罪人、正しい人と不正な人、善人と悪人、そして金持ちと貧しい人に分断していた。
 「応報の神学」によれば、神は正しい人に富と長寿をもって報い、罪人を貧困、苦しみ、短命をもって罰するのである。このような現実に対して、「だれにでも同じひとつのことが臨む」(9・3a)と「コヘレトの言葉」は記している。彼にとって、死は人間的事象の一つであって、律法遵守や善行の実践とは何の関わりもないものである。善行や正義はまったく無償で行われるべきで、神からの報いを期待すべきではない。死が不可避の現実であるように、人はそれぞれの人生を神の賜物として生き、何の見返りも求めずに善を行うように召されているのである。コヘレトの時代の現実と神殿宗教について少しでも知るためにこの書をひもとき、その言葉に照らされながら私たちの生と死について省察してみよう。

1.正しい人と悪人

 「悪いことをしても自覚しないような愚か者は供え物をするよりも、聞き従う方がよい」(4・17)。コヘレトは古典期預言者たちと同じように、権利や正義の行使を約束せずに、いけにえの献げ物に重きを置くだけの宗教について民に警告を発する。(ホセ6・6)
 他の多くの宗教と同様、イスラエル民族の宗教の歴史においても常に献げ物の儀式が存在した。それは捕囚後の時代、特にネヘミアとエズラによる神殿の再建時代に中心的に行われた。ここで献げ物の役割を理解するために、捕囚後の宗教の主要な特徴を思い出してみよう。そうすれば献げ物の儀式よりも神の言葉に聞き従うことを大切にしたコヘレトの意図もよくわかるであろう。
 ペルシア帝国の政策によって、ユダヤ人たちは他の民族と同じように祖国の土地へ戻ることを許された(紀元前538年)。反対する集団もあったが、515年にエルサレムの神殿は再建された。しかし、神殿だけでは民族共同体を組織化するには不十分であった。数年後、ネヘミアが神殿に秩序を設ける使命を帯びて到着した。彼はエルサレムの城壁を再建し、土地の再分配を行った。ペルシア帝国へ納める年貢のために、生産物の取り立てという新らたな政策が必要となり、ネヘミアは神殿税の引き上げを行った。
 「応報の神学」として知られる当時の神学は、神は正しい人に富、子孫、長寿をもって報いてくださると主張していた。貧困、病気そして不妊は神の罰のしるしであった(参照:申30・15―16)。徐々にこの神学は民の中に定着し、特にエズラの時代に広く行き渡った。エズラは律法学者、律法教師であり、ユダヤ人共同体を律法と神殿を中心として再編成する使命をペルシアから受けていた。こうして、ヤーウェの律法は段々と王の法律やペルシア帝国の利益に取り込まれていった。
 こうした新体制に合法性を与えた書物の一つはレビ記であった。神聖法典(レビ17−26章)と聖潔規定(レビ11−16章)は読み直され、再強化された。救いに与る唯一の方法は、公定の神の律法を遵守することとされ、律法に従わない者には厳しい罰が下された。「あなたの神の律法と王の法律に従わない者はすべてこれを厳しく裁き、死刑または流刑、財産没収または投獄によって処罰しなければならない」(エズ7・26)
 正しい人とは、律法の命ずるすべてのことを実行する人のことである。宗教法規は人々を、律法の規定を守る者と守らない者、清い者と汚れた者、聖人と罪人、正しい者と不正な者というふうに分断していた。これらの聖性の判断は、清めの儀式を司る祭司たちによって行われていた。いったい誰が不浄と見なされたのであろうか。それは貧しい者、病人あるいは身体に障がいを持った者、そして外国人であった(出エ20・5;詩8・2−6)。汚れには恒常的なものと一時的なものがあった。例えば、死体に触れた者は汚れた状態になるが、清めの儀式を行うことで元のように清くなれるのである。
 汚れた者が触れる物はすべて不浄となるので、彼らは社会生活から排斥されていた。清められて社会に復帰するためには、いけにえを献げる必要があった。何種類もの献げ物があり、それぞれに異なった規定があった。こうした体制の被害者は主に貧しい人たちであった。なぜなら、献げ物には高額の出費が伴うために、彼らはほとんど律法の要求に従うことができないからであった(レビ14・4、10、21)。
 女性たちの置かれた状況を思い起こすことも重要である。月経と出産によって女性たちは不浄となる。清めの儀式には献げ物が要求されるので、女性たちは長期間にわたり社会から排除されて過ごさなければならず、神殿に負債を負うことになる(レビ12章)。このようにして、清めに関する法規は神殿で働く人々の生活を養い、富ませるための仕掛けとなった。
 献げ物は公定の律法の要求であり、神殿祭司たちによれば、それは必要不可欠な儀式である。長年の間、公教育では献げ物の重要性と中心性が強調されてきた。しかし、公定神学の中でその重要性を最低限に抑えようとする声が上がる。「供え物をするよりも聞き従う方がよい」(コヘ4・27)。さらに続けてコヘレトは言う、「神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ」(5・1b)。「願いをかけたら誓いを果たせ。願いをかけておきながら、誓いを果たさないなら、願いをかけないほうがよい」(5・3−4)。
 コヘレトは、よく観察した上で公定神学が現実からかけ離れていることを立証する。「応報の神学」は律法を守る者たちに長寿、繁栄、幸福を保証しているが、人生はその逆を示している。多くの正しい人々が大きな苦しみや早過ぎる死に遭遇している。コヘレトは貧困や苦しみ、病気や死は何ら神の罰ではなく、構造的に不正な社会体制の結果であることを明言している(6・1−2)。この見解に立って、コヘレト9章1−10節のテキストにある彼の省察から知恵の言葉を傾聴してみたい。

2.あなたの業を神は受け入れていてくださる

 わたしは心を尽くして次ぎのようなことを明らかにした。すなわち、善人、賢人、そして彼らの働きは、神の手の中にある。愛も、憎しみも、人間は知らない。人間の前にあるすべてのことは、何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも良い人にも(悪い人にも)清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが誓いを恐れる人にも起こる。太陽の下に起こるすべてのことの中で最も悪いのは、だれにでも同じひとつのことが臨むこと、その上、生きている間、人の心は悪に満ち、思いは狂っていて、その後は死ぬだけだということ。
 命あるもののうちに数えられてさえいればまだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。生きているものは、少なくとも知っている。自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる。その愛も憎しみも、情熱も、既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれひとつにも、もう何のかかわりもない。
 さあ、喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる。どのようなときにも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな。太陽の下、与えられた空しい人生の日々、愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの人生と労苦の報いなのだ。何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ(9・1−10)
 注意深く人生を観察した結果、コヘレトは人間の理解には限界があるという結論に達する(8・17)。どれ程の賢者であろうとも人生の意味を発見することはできない。人生は常に不可解な謎のままとどまっている。詳しく調べ上げた後で、この賢者は「善人、賢人、そして彼らの働きは神の手の中にある」(9・1)という確信に至る。ここで信仰による行いを問題にしているのだ。今日でも大きな苦難に直面すると、私たちは大抵「神のみ手にゆだねよう。神は何をなすべきかご存じだから」と言っている。
 善人(正しい人)と賢人は神の前では同じ価値を持っている。善人(正しい人)とは、信仰深く律法の規定をすべて守る人のことである。賢人とは、特別な能力を持っている人である。しかし、両人とも神の手の中にある。神の手の中にあるとは、二つの意味を持っている。一つは、祝福、保護、安全で、もう一つは、管理、支配(参照:箴言21・1;詩31・6;イザ66・2)。コヘレト自身「人間にとって最も良いのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは、神の手からいただくもの」(2・24)と言っている。
 神は解きがたい謎であり、人間は神の道を理解することはできない。詩編の詩人も認めているように、「その驚くべき知識は、わたしを越え、あまりに高くて到達できない」(詩139・6)。それゆえ、人は何が自分を待っているか知ることはできない。それは愛なのか、憎しみなのか。神が自分を愛しているか憎んでいるのか、誰も知ることはできない。それゆえコヘレトは、富を神の祝福のしるしとし、貧困を呪いのしるしとみなす当時の考え方とは反対の立場を取るのである。
 経験と観察に基づいて、コヘレトは「応報の神学」の欠陥と誤りを指摘する。「善人でありながら、悪人の業の報いを受ける者があり、悪人でありながら、善人の業の報いを受ける者がある」(8・14)。賢者は続けて、応報などと言うものは有り得ないことを説明している。「何事も同じで、同じひとつのことが善人にも悪人にも、良い人にも清い人にも不浄な人にも、いけにえをささげる人にもささげない人にも臨む。良い人に起こることが罪を犯す人にも起こり、誓いを立てる人に起こることが誓いを恐れる人にも起こる」(9・2)。
 興味深いことに、コヘレトは人生全体を包含しながら人間について一般的な口調で語り始める。続いて宗教の領域に入って、清い人と不浄な人、清めのおきてを守る人と守らない人(レビ11−15章)、献げ物によって神を礼拝する人としない人、あるいはその礼拝に反対の人、主の命令を守る人と守らない人という様に次々に列挙していく。しかし、つまるところ、すべての人々は同等なのである。「だれにでも同じひとつのことが臨む」(9・3)のだから。誰もこれからは逃れ得ないのである。
 人間が会得できる唯一確実なことは、人間は死へ向かって歩む存在であるということである。コヘレト自らその教えの中で、このテーマを既に取り上げている。「賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている、両者に同じことが起こるのだということを」(2・14)。悪事に対する罰がないのと同様、善行に対する報いもないとする。この時代にあっては、大胆な教えである。この発言は日々の経験をその深奥まで読み解いた人間のもので、それゆえ公定神学に反駁できるのである。この教えは、一部の者にとっては大きな慰めであったが、大多数の人々にとっては受け入れがたいものだったに違いない。
 ここであのよく知られた問いが出てくる。「結局のところ、人が賢く、正しく、正直で、信仰深くあってもそれが何になると言うのか」。神からの報いを受けるために正しい行いをすべきではない。人は分かち合いや助け合いをまったく無償で実行するように召されている。いかなる代価をも期待してはならないのである。コヘレトが観察したもうひとつのことは、人々の心の中にある邪悪についてである(コヘ9・3b;8・11b)。すべての人々が死へ向かって歩んでいるが、人の運命は生前の行いに左右されない。死は人間にとって自然な成り行きなのである。
 何はともあれ、生きているほうが望ましい。人生がいかに苛酷なものであろうとも、生きていることはよいことだ。生きていればまだ希望がある。聖書では、希望は生と死の主である神に関係づけられている。人生の価値を高めるために、コヘレトはよく知られた格言を引用する。「犬でも生きていれば、死んだ獅子よりましだ」(9・4b)。ユダヤ人にとって犬は汚れた動物で、蔑視されていた。獅子は、その反対に、王位と権力の象徴であった。それでも、生きている犬の方がましなのである。また、詩人の言葉を借りれば、「いかに人生が苛酷であっても、生きるために闘うことには意味がある。」(ジョアン・カブラル・デ・メロ・ネット)
 「生きているものは少なくとも知っている。自分はやがて死ぬということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない」(コヘ9・5b)。コヘレトは、死後のいのちについて自分の意見をはっきりと表明している。彼の見解によれば、死後にはいかなる希望も存在しない。「彼らはもう報いを受けることもなく、彼らの名は忘れられる」(9・5b)。死はすべての終りである。人間の願いは自分の名前を子々孫々にまで残すことだから、忘れ去られることは存在の可能性をまったく失うことを意味する。それは大きな悪である。
 コヘレトの見るところでは、シェオール(死者の国)には何もない。すべては終わったのである。「その愛も憎しみも情熱も既に消えうせ、太陽の下に起こることのどれひとつにももう何のかかわりもない」(9・6)。完全消滅である。賢者は当時の文章作法に従って、最初の章句を否定的な形で閉じ、私たちを空虚な気持にさせる。しかし、彼の偉大な教えは次のように続いている ― 人生の喜びを享受しなさい。
 人生が与えてくれる果実を摘み取るために、再びコヘレトが与えてくれる助言を聞いてみよう。(9・7−9)パンを食べ、ブドウ酒を飲むことはごく日常的なことであり、生きる力をそれにより保つことができる。しかし、彼の勧めはその先を行く。「さあ喜んであなたのパンを食べ、気持ちよくあなたの酒を飲むがよい」と。そして、コヘレトは「あなたの業を神は受け入れていてくださる」(9・7c)と締めくくる。興味深いことに、神は被造物が幸福に生きることを喜ばれるのだ。神は、自分の目に適っているかどうかに関係なく人間の業を受け入れてくださる。それは無償の恵みである。
 「どの様なときも純白の衣を着て、頭には香油を絶やすな」(9・8)。衣服をまとうことは基本的に必要なことであるが、賢者はその先を行く。純白の衣を着るということは、永遠の清さのしるしである。祝祭の時に香油を使うことは一般的であった。だれも四六時中お祭り騒ぎをして生きることはできないが、人生において、祝い楽しみながら喜びのうちに生きることは可能である。
 そして、コヘレトは「愛する妻と共に楽しく生きるがよい」(9・9b)と付け加える。この文脈においてコヘレトは妻と言っているが、大切なことは愛する人々と人生を分かち合うことで、賢者は人生を十分に活かすことが最優先であると主張しているのである。そして、「それが、太陽の下で労苦するあなたへの、人生と労苦の報いなのだ」(9・9b)と付け加える。それはまたすべての男女の権利でもある。
 なぜコヘレトは、それ程までに日常の喜びを最大限に享受するように勧めるのであろうか。コヘレトの時代は搾取と律法主義によって特徴づけられた時代であった。一方で、ギリシャ帝国(プトレマイオス朝)は、生産拡大を要求して大多数の人々に重労働を強要し、数多の早過ぎる死を惹き起していた。他方、第二神殿の宗教体制は、清めの儀式を要求し、清い者と汚れた者との間の差別を煽り立てていた。人は誇りを持って常に喜びのうちに生きるべきだと主張する時、賢者はプトレマイオス朝の統治と神殿体制の非人間性を批判しているのである。
 なぜ人生を楽しむべきなのかについて、コヘレトは繰り返し強調する。「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には、仕事も企ても知恵も知識ももうないのだ」(9・10)。死は、私たちに生きる意味について考えることを促す厳然たる事実である。生きているうちに善いことをするがよい、なぜなら死はすべての終わりだからである。死について語るとき、コヘレトは新奇なことを言っているわけではなく、当時一般的に信じられていた「死後のいのちは存在しない」という見解を繰り返しているに過ぎない(参照:詩88・12−13;ヨブ10・21−22)。ここで旧約聖書の執筆者集団がどのように死を捉えていたかをもう少し見てみよう。

3.すべてはちりから来て、ちりにもどる

 旧約聖書において、死は人間の自然な最期である。「わたしたちは皆、死ぬべきもの、地に流されれば再び集めることができない水のようなものでございます。このように、神は死体を生き返らせたりなさいません。」訳注(サム下14・14)。死んだ者は、死者の住む場所シェオールへ行き、あらゆるものから、神からさえ見放された状態に置かれるのである。「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」(詩6・6)。「陰府があなたに感謝することはなく、死があなたを賛美することはないので、墓に下る者はあなたのまことを期待することができない」(イザ38・18; 参照:詩115・17)。

訳注=斜体部分はブラジル司牧版聖書からの訳出。日本の新共同訳聖書にはこの文章はない。

 陰府へ下る時、いかに人々がこの死の国に対して恐怖を懐いていたかを旧約聖書は示している。

−「あなたが死者に対して驚くべき御業をなさったり、死霊が起き上がって、あなたに感謝したりすることがあるでしょうか。墓の中で、あなたの慈しみが、滅びの国であなたのまことが語られたりするでしょうか」(詩88・11−12)。

−「お前の高ぶりは、琴の響きと共に、陰府に落ちた。蛆がお前の下に寝床となり、虫がお前を覆う」(イザ14・11)。

−「亡者たち、陰府の淵に住む者たちは、水の底でのたうち回る。陰府も神の前ではあらわであり、滅びの国も覆われてはいない」(ヨブ26・5−6)。

−「わたしの人生など何ほどのこともないのです。わたしから離れ去り、立ち直らせてください。二度と帰ってこられない暗黒の死の闇の国にわたしが行ってしまう前に。その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほどなのだ」(ヨブ 10・20−22)。

 すべての人々が同じ終着地を持っている。その終着地は死者の国、滅び国である。死後のいのちの可能性がないとすれば、ユダヤ人にとって長寿は最も重要な祝福のひとつとなる。「わが子よ、聞け、わたしの言うことを受け入れよ。そうすれば、命の年月は増す。わたしはあなたに知恵の道を教え、まっすぐな道にあなたを導いた」(箴4・10−11)。公定の知恵によれば、律法の前に正しい人が長寿を受け、神から祝福されるのである。例えば預言者ゼカリアは、終末的メシアの救済を待望しながら、長寿は神の祝福と救いであると述べている。「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして」(ゼカ8・4;イザ65・20、22)。
 信仰深く、正しく、清い人は死後彼の先祖の列に加えられる、と信じる人々もいた。「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(創25・7−8;35・29;申32・50)。反対に、不正な人は苦難に満ちた短い生涯によって罰せられるのである(サム上2・31−32)。

4.現在を生きる

 けれどもコヘレトは、その時代の考え方に沿って、死者には最早いのちの可能性はないと断言する。それゆえ、彼が人生の意味と幸福について省察するとき、死のテーマはいつもそこに存在する。

−「賢者の目はその頭に、愚者の歩みは闇に。しかしわたしは知っている、両者に同じことが起こるのだということを。わたしはこうつぶやいた。『愚者に起こることは、わたしにも起こる。より賢くなろうとするのは無駄だ。』これまた空しい、とわたしは思った。賢者も愚者も、永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」(2・14−16)。

−「人間に臨むことは動物にも臨み、これも死に、あれも死ぬ。同じ霊を持っているにすぎず、人間は動物に何らまさるところはない。すべては空しく、すべてはひとつのところへ行く。すべては塵から成った。すべては塵に返る」(3・19−20)。

−「たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所に行くのだから」(6・6)。
 コヘレトは、しかしながら、同時代の神学的思考に逆らって、現実をよく観察したあと生の中にも死の中にも応報を否認する。彼は「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」と観察している。重くのしかかる搾取と苦しみを前に、生きているよりも死ぬほうが望ましいこともある。「既に死んだ人を、幸だと言おう。更に生きていかなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(4・2−3)。
 コヘレトにとって、民衆の苦しみの日々は「応報の神学」が主張していることの反対を立証している。この神学は、幸福に満ち足りた長寿を正しい人に、貧困、病気、苦しみ、短命を不正な人に約束している。自身の経験に基づいて、彼は確信を持って語る。「この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人(正しい人)がその善(正義)のゆえに滅びることもあり、悪人(不正な人)がその悪(不義)ゆえに長らえることもある」(7・15)。「応報の神学」はまやかしに満ちた幻想に過ぎないのである。
 賢明な現実主義者であるコヘレトは、私たちの人生において唯一確かなことは死であることを確認する。一人ひとりは今この時を精いっぱい生きるように召されているのである。「わたしは知った。人間にとってもっとも幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだ、と。人だれもが飲み食いし、その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」(3・12−13)。死後にはいのちの望みも報いもないにもかかわらず、コヘレトは現在を生き、善を行い、人々と人生を愛することは価値がある、と繰り返し主張する。
 「一日として同じ日はない」と、民衆の格言がこれを裏付けている。この格言は、すべては過ぎ行くはかないものにすぎないという民間信仰を反映している。この信仰はコヘレトの省察と並行しているように見える。コヘレトは彼の時代の人々が、存在するすべてのもの、太陽の下で栄光や名誉や富を名目に起こるすべてのことを相対化するのを助けようとしているのである。しかし、またあの問いに引き戻される。応報を期待して律法のすべての規定を守ったところで何の役に立つと言うのか。
 コヘレトは、人生の価値を高めることを提案している。すべての人々が幸福になる唯一の道は、分かち合いと助け合いのうちに生きることだと言うのである。「青春の日々こそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに」(コヘ12・1)。創造主に心を留めるとは、神のご計画 ― すべての人間が生きること ― を実行することである。なぜなら、いのちは神の息吹によって創造された神の賜物なのだから。「塵は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」(12・7)(参照:創2・7;詩90・3;104・30)。
 死についての教説は、人々がよりよく現在を生きるのを助けるところに、その目的がある。従ってこの教えが、社会的不平等を前にして、私たちがそれを肯定し受け入れる口実に使われてはならない。反対に、神のご計画はすべての人々に真のいのちを与えることだという確信をもって、私たちがこの教えによって、自分のいのちと周囲の人々のいのちを守るように押し出されていくべきである。

5.死後についての他の見解

 ユダヤ民族の状況は、ギリシャ帝国統治時代、大変困難なものとなった。紀元前167年ころ神殿が略奪された時、ユダヤ教と律法は禁止され、多くの律法に忠実な人々が殺された。こうした時代背景において、無実の人々の死に意味を与え、ユダヤ人をギリシャ帝国主義への抵抗運動へ駆り出すために、復活の神学が強化された(二マカ7・9,11,23;14・46; 参照:イザ25・8;26・19)。律法を遵守する正しい人々は永遠のいのちに復活し、不正な人々は永遠の恥に落とされる(ダニ12・2−3)。
 後代になって、キリスト教共同体は、イエスが生きて示された正義と憐れみの実践を永遠のいのちに到るための条件として説いた(マタ25・31−46)。これらの共同体は、イエスは「苦難の僕」として正義を行い、迫害され殺されたが、神はこのイエスを復活させ(マコ8・31;参照:イザ42・1−9;52・13−53・12)、今もなお生きていると教えている。この希望こそ、キリスト教徒の信仰と人生に対する信頼を支えているのである(ヨハ5・21;6・33;10・10)。
 死の経験は宗教的信条とはかかわりなく、すべての人々に共通なものである。死についての省察は、あらゆる文化、あらゆる時代に存在するテーマである。死の問題については既に多くの書物が書かれている。私たちは日々死と共に生きている。一生かけて死を受け入れることを学ぶのである。民間の格言に言われているように、「死について考えることは、生について考えることである」。多くの場合、人生において喜びと無償の愛のうちに苦難を乗り越えて生きていく力は、両親や息子、娘、友人たち、あるいは自らの死に直面して苦悩した体験を通して得られるのである。
 現代社会は、死を覆い隠し、死について考えないように仕向けている。なぜなら、死について考えることは、現在の人生の有り様について考えることだからである。このことは、ただひたすら生産性と利潤を追求し、競争をあおり、果てしない物欲に人を駆り立て、何百万という罪のない人々の死を惹き起している市場経済原理には関心のないことである。利潤追求と貯め込みの論理で回転している社会は、民衆が苦闘し、生きることを学び、人生のささやかな出来事を楽しもうとすることなどには目もくれないのである。
 自然な死であろうと不正な社会によってもたらされた死であろうと、死はすべての人々に不可避な現実である。私たちにとって唯一確実なことであるにもかかわらず、だれも何時それがやってくるか知らない。人生が残り僅かになったことを告知された人々の反応は実に様々である。絶望に陥る人もいれば、死を受け入れることを拒む人、意気消沈する人もいる。特に、この世の生を超えた何かを信じている人々は平静に死と向き合うであろう。ある末期患者の女性は、死ぬ少し前に、次のような証言を残している。「私は死を受け入れます。死も永遠ではありません。神と出会うとき、私たちは美しいものになるのです」。民衆の知恵が断言するように、「老いるということは、どこまでも続く道程の最終点に死が待っていることを受け入れることである」。
 現在の生活を大切にしつつ、今この時を幸福に生きるようにコヘレトは提言する。神の無償の贈り物としての人生を一生懸命に生きて、天寿を全うせよ。この呼びかけは聖書の中にあり、また私たちの中に生きている賢者の呼びかけでもある。セルジオ・ブリットの「墓碑銘」は、私たちが人生を十二分に生きることができるようにとの強い願いを表現している。

もっと愛し、もっと涙を流し、
日が昇るのを見ればよかった。
間違ってもいいからもっと冒険しておけばよかった。
やりたいことをやったらよかったのに。
人々をありのままに受け入れればよかった。
人はそれぞれ心の中に喜びと痛みを持っている。
あんなに難しく考えず、あんなにあくせく働かず、
沈みゆく夕陽に見とれてみたかった。
ささいなことにあれほどこだわる必要はなかったのに。
死ぬほど人を愛せばよかった。
人生をありのままに受け入れればよかった。
一人ひとり生きてきたように喜びも悲しみも訪れる。

できるだけ歳を重ね、神の贈り物の人生を精いっぱい生きよう。人生に乾杯!
     ("Vida Pastoral" 2006年9−10月号 掲載)
(翻訳:中山雄一、小井沼眞樹子)

【参考文献】
・CENTRO B?BLICO VERBO, Come teu p?o com alegria! Eclesiastes:roteiros e orienta??es para encontros, S?o Paulo, Paulus, 2006

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・STORNIOLO, Ivo, Trabalho e felicidade: O livro de Eclesiastes ,
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