グローバリゼーションの『煉獄』と
ブラジル・キリスト教の一断面
大倉一郎氏
『SOKEN 2006年10月号』(青山学院大学総合研究所 )掲載
1.はじめに
「キリスト教の霊性」研究プロジェクトは、2006年4月、代表の大庭昭博経営学部教授の急逝で中断に至った。研究成果の一端、『キリスト教のスピリチュアリティー』の刊行を成し遂げたとはいえ、大庭教授の先見的な構想が完成を見なかったのは惜しまれる。プロジェクトに客員参加させていただき、ブラジル・フィールドワークの機会まで与えられた者としては、今後の自らの研究にその遺志を生かしたい。本稿に大庭教授へのささやかな追悼の思いを込める次第である。

2.「煉獄」を生きるブラジル民衆とその抵抗
 ブラジルは、気候的に見れば、熱帯から亜熱帯、さらに温帯にかけて地域差が大きく、また社会的に見れば、貧富の差を含めてさまざまな闘いがある煉獄社会であるが、国民一人ひとりに焦点を当ててみるならば、そこには先進国の人々にない自由さ、明るさ、そして喜びがある。(小井沼國光)

 地理的に南米大陸の50%近くを占める大国ブラジルは、歴史的にはグローバリゼーションの陰影を深く刻印され、いまも民衆の苦闘が続く社会である。近代世界のグローバリゼーションの嚆矢とも言うべきポルトガル植民地主義は、16世紀から19世紀までの間に今日なおブラジル社会に残る幾つかの基本的性格を形成した。ブラジルは19世紀前半に独立国家となり、帝政を経て、共和制の実現、民主化などの近代化が進展した。

 しかし、その半面、著しい地方間格差、一握りの大土地所有層と多数の土地なし農民層、また奴隷制時代の人種関係が反映している少数の富裕層と圧倒的な極貧層の存在など、いずれも植民地主義の負の遺産といえる。最近の貧富の格差の拡大もその歴史の延長線上にある。1999年のIBGE(地理統計院)の調査でも、ブラジル国民の10%という富裕層が国内総所得の46.8%を手にし、50%を占める貧困層の総所得は13.9%に過ぎず、とくに1%の最富裕層の総所得だけで、貧困層全体の総所得に達しているという(2002/4/26.「サンパウロ新聞」)。

 このようなブラジル社会を、牧師小井沼國光はブラジル宣教の実体験を伴って「煉獄社会」と表現した。彼はそれを古代教父アウグスチヌスの思想のアナロジーとして気づいたと、著書『先駆ける「煉獄時代」のブラジル』に述べている。つまり死後の人間は天国か地獄への道行きに先立って煉獄に導かれる。そこで人々は試練の業火によって鍛えられ、道行きの最終決定に備える。これは厳しい過程ではあるが、小井沼はそこに救済への希望を認めて、その過酷だが希望を宿した過程に類比させて、現代ブラジルを煉獄社会とイメージしたのである。

 煉獄としてイメージされたブラジル社会に生きる民衆の苦難は想像を絶する長さと深さである。しかし、いまそれを現ルーラ政権の誕生前後からの動きに限って言えば、歴史的国内矛盾だけでは説明し得ない。今日のグローバリゼーションとの関連を注目しなければならない。つまり、現在のブラジル社会にはアメリカの覇権的グローバリズムがその前に立ちはだかっている。2002年、大統領選挙にルイス・イナシオ・ルーラ・ダ・シルヴァがPT(労働者党)から立候補すると、左翼政権の誕生を嫌うアメリカのグローバル資本主義は露骨に干渉した。経済地理学者水岡不二雄によれば、この大統領選挙に際して、投機家ソロスは、「市場は、ブラジルにセハ(政府派大統領候補)を選ぶよう申し渡している。グローバル資本主義においては、ブラジル人ではなくアメリカ人だけが有権者なのだ」と豪語した。しかし、この民主主義に対する内政干渉的な発言は、ブラジル人の反発を買うことになったという(2006.『グローバリズム』八朔社)。もとより、人々がソロスの一言だけに反発したのでないことはいうまでもない。それは、ブラジルの富に対する様々なグローバル資本の支配の野望を、下品にかつ典型的に表現していたに過ぎなかったのである。

 ブラジルの民衆は、グローバル化する世界を生き抜かねばならない。その人々の意思が、ネオリベラリストを退け、土地なし農民運動などの貧困層を中心とした圧倒的支持によって、ルーラの大統領当選として示された。ルーラ政権は、共産党、社会党、緑の党などからなる連立政権を発足し、ときに現実的な政策を迫られながらも、アメリカのネオリベラリズムからの脱却を模索している。ルーラ政権には、外から迫る覇権的グローバリズムのひずみを負わされるブラジル民衆の抵抗と期待の政治的表現を認めることが出来る。実際、土地なし農民運動の現場の指導者たち、労働組合指導者のアメリカのグローバリズムに対する厳しい批判は、ブラジル社会での民衆の貧困からの解放と社会正義の実現の闘いの中に明確に語られ続けている。

3.煉獄社会を民衆と歩むキリスト教
 今日、グローバル・イッシュー、例えば人権問題や環境問題などに取り組むブラジルの民衆的な社会組織は数多い。その中にはキリスト教的アイデンティティーに立脚した運動、あるいはキリスト教徒が積極的に参加している運動も少なくない。このことを説明するには、一度、1960年代に遡るブラジル・キリスト教の動きに言及する必要がある。それはキリスト教基礎共同体(CEB: comunidades Eclesiais de Base)の運動である。基礎共同体は、カトリック教会の地域民衆組織として、信仰の教えを根拠に貧困層のケアを試みる活動体であった。そのため、かつての軍政時代、とくに60年代末には、おのずと厳しい弾圧下で人権と社会正義を求める民衆運動の中心となった。その後、民主化の過程でブラジルの民衆運動は様々な問題群に対応して個別化し、全体としては多様化した。時代状況の推移の中で基礎共同体は、民衆運動の中に並列化されたともいえる。さらにヴァチカン保守派の圧力やペンテコステ主義の民衆への浸透も基礎共同体の停滞をもたらしたと言われる。

 しかし、これらをもって基礎共同体運動の全てを説明できるものではない。今日、基礎共同体運動が、対決的な政治行動から、「聖書学習運動」(聖書を共同で再読する活動として組織的に実践されている)など信仰育成の地味な活動にシフトしていることも見逃せない。対決的状況に対応した高揚から転換して、基礎共同体運動は刷新のための自己省察の時を歩んでいるともいえる。その中で伝統的プロテスタント教会や「先進諸国」の国際ネットワークにも共鳴者を呼び起こし地道に展開している。

 ところで、基礎共同体運動は新たなキリスト教霊性の胎動の時代でもあった。霊性という言葉は説明の困難な言葉だが、ここでは基礎共同体運動の実践者自身のよく知られた説明を尊重したい。それは自らの霊性を「解放の霊性」と命名し、「イエスに従うこと」(G・グティエレス)と説明する。つまり、苦しむ貧者に出会った信仰者をして、自らがあるべきイエスへの服従と考える実践に導く認識と行為のことだと言えるだろう。

 この解放の霊性の思想と実践において、とくにブラジル・カトリック教会指導者エルデール・カマラ司教を上げねばならない。彼はとくに貧しいノルデスチ(東北部)地方のレシフェ及びオリンダの司教として社会の構造的悪と暴力の根本的転換を臆することなく主張した。彼は1950年代初頭からブラジル民衆の解放を目指すキリスト教運動の指導者であり、貧困のはびこる煉獄社会におけるキリスト教霊性として、先に述べた解放の霊性を先駆的に提示した。その彼に続くブラジル・キリスト教の流れが、今日の基礎共同体運動や聖書学習運動に継承されている。それゆえ、この流れのキリスト教運動は、しばしば解放の神学派と呼ばれながら、当初から社会実践的でありつつ霊性刷新運動としての性格を色濃く宿して今日に至っている。

4.覇権的グローバリゼーションへの抵抗へ
 かつてカマラ司教は、「貧しい人を助けると、私は聖者と呼ばれるが、どうして彼らは貧しいのかと尋ねると、共産主義者と呼ばれる」という鋭い警句を語ったことがある。ここで注目したいのは、人が単なる慈善(チャリティ)に留まることを止めて、社会の正義(ジャスティス)を問い始めるとき、社会システムを支配する者たちは、その声を警戒し排除しようと動き始めることを喝破している点である。

 この警句に注目した経済学者カムラン・モフィッドは、彼の著『公益のためのグローバル化』の中でそれに言及している。モフィッドはこの警句が、現代の覇権的グローバリズムの作り出す状況に根本的疑問を投げかける批判にもなると解釈した。彼はグローバリゼーション下の煉獄社会を「荒れ野」と呼んで次のように批判する。

 これまでのところ、近代の新古典派経済学の失敗として、私たちの地域をも含め、世界の多くの地域で貧困、不平等、不正、そして社会的周辺化(人や集団を社会の主流からはずし、周辺的な地位へ追いやること)や排斥が破局的に増加し、実際のところ、永続していることを明らかにした。これらの失敗によって私たちの土地は荒れ野と化し、私たちはやせ衰えてしまった。このような諸悪をいいかげんに処理することはゆるされない。

 モフィッドの批判の焦点は明確である。それは新古典派経済学に代表される強者のグローバリズムに対する告発である。彼は「荒れ野」とはIMFや世界銀行の管理する土地であり、非人間化が深刻化せざるを得ない状況であると批判している。このように、カマラ司教に代表されるブラジル・キリスト教の流れは、その霊性と実践において非人間化の力に対する抵抗姿勢を深く内包し持続してきた。それは今日の聖書学習運動の基本的性格でもある。その意味で、聖書学習運動は、宗教的内面性への後退にも見えるが、実際にはキリスト教の自己変革と社会実践的本質を明らかにする方向を大胆に深めている。また繁栄と上昇の幻想を振りまくアメリカ的ファンダメンタリズムに柔軟に対抗しつつ、カトリックに留まらずプロテスタントにも裾野を広げている。さらに直接には宗教運動ではないが、土地なし農民運動の中にも解放の神学派の系譜を引く行動的なキリスト教徒の参加を数多く見ることができる。そのような人々が聖書学習運動の参加者でもあるのは稀なことではない。

5.おわりに
 煉獄としての現代ブラジル社会を克服しようと歩むキリスト教は、ブラジルに影を落とす覇権的グローバリズムに対して困難を抱えつつ抵抗を示している。しかし、それは民衆の側のグローバリズム形成の一角を担う営みとして、オルタナティブな社会へのキリスト教の一つの可能性を予感させる。あらためて、冒頭に引用した小井沼宣教師の「そこには先進国の人々にはない自由さ、明るさ、そして喜びがある」との一節を思い起こしたい。この言葉に筆者自身のフィールドワークの心象を重ねるとき、「自由、明るさ、喜び」とは、覇権的グローバリズムに抗してブラジルの煉獄を越えようと希望を抱きしぶとく闘っていた人々の、まさにあの表情に感じられたものに他ならなかったと気づくのである。

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