「その名はイエス・キリスト」
2006年9月24日
市川三本松教会 説教
松本敏之
その名はイエス・キリスト
マタイ福音書25章31〜46節
イエス・キリストの最後の教え
 今朝、私たちに与えられましたみ言葉は、マタイ福音書の中で、主イエスが語られた最後の教えであります。この後、第26章よりいわば主イエスの受難物語が始まりますので、そういう意味では、この部分は、主イエスの教えの総括であると言ってもいいと思います。実にスケールの大きい話を、主イエスはここでされています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(31〜33節)。そのようにして、人の子(この後は「王」となっていますが、これらは二つともイエス・キリストを指し示す称号であります)は、裁きを始められるのです。では一体その裁きの基準は何かということが、今朝のテキストの、ひとつの中心点であります。  マタイ福音書の中で、主イエスの教えがまとめられた箇所としては、5〜7章の山上の説教が有名ですが、そのほぼ終わりの部分で、主イエスはこう語っておられます。「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、私から離れ去れ』」(7:21〜23)。
 山上の説教の終わりにあるこの主イエスの言葉と、主イエスの教え全体の総括である今日の箇所とは、響き合うものがあると思います。偽書者が退けられて、本当に心から喜んで主の御心を行う人、あるいはそれさえも気づかないほど自然に主の喜ばれることをする人が御国へ入れられる。そこでは一種の逆転が起きる、というのです。主イエスは、これによってわたしたちを脅したり、脅迫したりしようとしておられるのではありません。未来のことを語りながら、「今」私たちがいかに生きるべきかということについて語っておられるのです。「今という時」を主の御心にふさわしく生きるために、この言葉を語られました。このみ言葉に聞きつつ、何が主に喜ばれることであるかを知り、「よし、わたしもそのように生きよう」と促される者となりたいと思います。

世界の主キリスト
 この言葉を読んで最初に心に留めたいことは、私たちの主は、ただ単に数会の主、あるいはクリスチャンの主というだけではなく、世界全体の主であるということです。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくるとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められる」と書いてあります。主イエスは、それを信じていようとなかろうと、知ろうと知るまいと、すべての人の主です。それを世間の人が認めようと認めまいと、すでに主はこの世界を隠れた形で支配しておられて、きたるべき日には、それが明らかになるということです。私たちはふと、イエス・キリストをクリスチャンの神様と思い込んでいることがありますが、そんな枠にイエス・キリストを閉じ込めることは間違っています。確かに教会は主の宣教の拠点ではありますが、主の栄光は教会を超えて輝きますし、主は教会を超えてお働きになる方です。主イエス御自身、「わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる」(ヨハネ福音書10:15〜16)と言われました。
 主イエスは、クリスチャンのためだけに死なれたのではありません。この世界のすべての人のために命を捨てられた。そしてすべての人のことを心配し、心に留めておられるお方です。それほど大きなスケールの主の働きを、かえって私たちクリスチャンが狭めてしまっていないかということをもう一度考えてみる必要があるかも知れません。主の支配は私たちの想像をはるかに超える世界にまで及び、主の恵みは私たちの想像を超えてはるかに遠くまで到達するのです。ここで主が「わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と語られた「最も小さい者の一人」というのも、クリスチャン云々というのではなく、もっと広いすべての人の中でのことを語っているのだと思います。

貧しい者と一体であるキリスト
 今日のテキストから学びたい第二のことは、ここで主イエスは貧しく、苦しみの中にある人々と一体となっておられるということです。「わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。深い味わいのある言葉だと思います。
 主イエスは、「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と言っておられますが、このところについて、釜が崎で働く本田哲郎神父(今度、ハンドインハンド千葉の招きで、市川三本松教会に来られるそうですね)は、「ここで取り上げられているのは、『食』『住』『衣』『健康』『自由』という5つの基本的人権に関係している」と述べています。人が人として生きる最も基本的な事柄が脅かされるような人のところに主イエスがおられ、一体となっておられるということです。  貧しく、苦しみの中にある者、そこに主イエスがおられるということは、そこまで深く、低く、主は人間になられたということであり、更に突っ込んで言えば、ここに述べられている人間の苦しみ、悲惨は、まさしく主イエス御自身のお姿に他ならないということでありましょう。この世の苦しみ悲しみの中で、主がご存知でないものはひとつもありません。「主のうけぬこころみも、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにもみあと見ゆ」(『讃美歌』第一編532番)。
こ のことは、今日の世界において、イエス・キリストは私たちの助けを必要としているような隣人、兄弟姉妹として、生きておられるということを意味しています。言い換えれば、今日、私たちはそうした私たちの助けを必要としているような兄弟姉妹を通して、キリストと出会うということ、私たちがキリストと出会うのはまさにそうした人々を通してである、ということです。

その名はイエス・キリスト
 わたしがブラジルで出会った賛美歌に「その名はイエス・キリスト」という歌があります。作者不詳ですが、オリジナルはスペイン語ですので、恐らくブラジル以外の南米のどこかで作られた賛美歌だと思います。直訳すると、こういう意味の歌詞です。

1その名はイエス・キリスト 飢えに苦しみ、
  飢えのために叫んでいる。
 私たちは彼を見ながら通り過ぎる
  時には急いで教会へ行くために。
 その名はイエス・キリスト 家も無く、
  歩道脇で眠っている。
 私たちは彼を見ながら通り過ぎる 
  酔っぱらって寝ているんだと言いながら。
  ※私たちの間におられるのに、
  私たちは気づかない。
   私たちの間におられるのに、
  私たちは彼を軽蔑している。

2その名はイエス・キリスト 字が読めず、物乞いをし、職も無い。
 私たちは彼を見ながら言う
  「ばかなやつだ。物乞いなどせずに、働けばいいのに」と。
 その名はイエス・キリスト 社会や教会から追い払われる。
 なぜなら私たちは彼を力ある王にしたのに、
  彼は貧しい人として生きるから。
  ※くり返し

3その名はイエス・キリスト
 病院に、また牢屋の檻の中に住んでいて
  私たちはほとんど彼を見ることはない。
 周辺に生きる人であることを
  私たちは知っている。
 その名はイエス・キリスト
   愛と正義の世界に飢え渇いて歩いている。
 しかし彼が平和を唱えるや否や
  (この世の)秩序は、彼に戦争の責任を負わせる。
  ※くり返し

いかにも南米らしい現実を踏まえた、ちょっと日本の数会のセンスでは生まれてこないような賛美歌です。(CDを聴く。)

 歌うための歌詞も作ってみましたので、みんなで歌ってみましょう。

1その名はイエス・キリスト  飢えのため叫んでいる
 私たちはその前を     足早に通り過ぎる
 その名はイエス・キリスト  道端で眠っている
 私たちはかたわらを    教会へと急ぎ行く
  ※私たちのただ中に   おられるのに気づかない
   私たちのすぐそばに  おられるのにわからない

2その名はイエス・キリスト  家もなく仕事もない
 私たちはあざ笑う      「ばかなやつ、働けよ」と
 その名はイエス・キリスト  力の王であるより
 貧しさに身をおかれて   人から退けられる

  ※くり返し 3その名はイエス・キリスト  平和と愛を求めて
 正義を説き始めると    捕らえられ、黙らされる
 その名はイエス・キリスト  牢屋の中に入れられ
 しいたげられる姿は     私たちには見えない
  ※くり返し

ブラジルの現実の中で
 ブラジルにいた頃は、何日に1回かは必ず貧しい人が、「食べる物でも着る物でも何でもいいから分けてください」と言って訪ねてきました。それで残ったパンとか古着とかあげると、おもしろいことに、彼らはお礼をあまり言わないのです。お礼を言う代わりに「神様が支払ってくださいます。神様の祝福がありますように」と言うのです。それでこっちが「ありがとうございます」とお礼を言ったりします。そういうときにふっと何かキリストの影を見るような思いをすることがありました。
 あるいはサンパウロで地下鉄に乗っていると、よく小さな子どもが紙切れを配りながら近づいてきます。それを見るとこんなことが書いてあります。「私は貧しい子どもです。私の兄弟たちのために食べ物を買う援助をお願いしています。どんな小銭でもお恵みください。でも持っておられなければ気にしないでください。その場合も同じように、あなたのためにお祈りします。ありがとうございました」。ブラジルでは全くありふれた光景です。「いちいちかかわっていたらきりがない」「甘やかせていたら、くせになる」「大人がうしろで彼らを操っているのだから、彼らにお金をあげても仕方がない」「どうせまた作り話だ」。いろんな思いが胸をよぎりつつ、完全に無視することもできず、財布の中の小銭を探すのです。彼らが私よりも圧倒的に貧しいということは明らかであり、私はそうした貧しい彼らの姿の中に何かキリストの気配のようなものを感じました。
 わたしはこういうセンスは、日本でも案外大事なのではないかと思っています。今日の世界において、キリストはどこにおられるかと問われたら、何か神々しいところではなくて、最も小さく貧しい、最もこの世界のひずみを受けて、苦しんでいる人々のもとにおられるのではないでしょうか。日本にいると、身近にそういう人が少ないせいか、こういうセンスが鈍ってくるような気がします。ただ隠れてはいても、日本にも確かに貧しい人はいますし、日本を含めた大きなピラミッド社会構造の犠牲となって苦しんでいる人々ということであれば、日本の外のアジア諸国に、たくさんいるのです。

まず身近なところに目を向けよう
 生きるのに無くてならぬ食べ物が十分になく、満たされることなく、最低限のもので生活している人々、そういう形で、イエス・キリストは私たちの間に生きておられます。また、住むところも仕事も十分ではない外国人の姿を取って、イエス・キリストは私たちの間に生きておられます。あるいはまた、地震などの自然災害や戦争で、持ち物すべてを失って、いわゆる裸の人々という姿において、私たちの間に生きておられます。キリストはまた私たちのただ中に、私たちが自分たちの狭い住まいから追い出してしまった病人の中に(今日ではエイズ患者としてなど)生きておられます。あるいはまた無実の罪、政治的意見の違いによって、投獄され解放を求めて叫んでいる人々という姿を取って生きておられます。
 こうした問題に目を向け始めるとき、私たちがすぐに身近に始められることもありますし、そんなことでは到底解決しそうもないような大きな構造的社会問題もありまず。しかし信仰の力というものは、私たちをそうした社会変革へまで向かわせるようなダイナミックな力を持つと、私は信じています。まず自分でできることを始めていく中で、必ず信仰の仲間があらわれて共同作業が始まっていくのではないでしょうか。

よきサマリア人の話
 ルカによる福音書に有名なよきサマリア人のたとえ話があります(10:25〜37)。ある人が強盗に襲われて、半死半生になっています。そこへ同胞であるユダヤ人の祭司やレビ人が、通りがかりますが、知らないふりをして、道の向こう側を通っていきます。今度は敵対しているはずのサマリア人が通りかかります。彼はその人を見て憐れに思い、近寄って介抱してやり、宿屋に連れて行き、そのお金まで支払ってあげるのです。教会学校の子どもたちでもみんな知っている有名なお話です。
 ところで、あのお話の中に、イエス・キリストがおられるとすれば、誰がキリストのたとえになっていると、皆さんはお考えでしょうか。言いかえれば、あのお話の中の一体どこにキリストがおられるのでしょうか。多くの方は、あのよきサマリア人だとお考えになるでしょう。教会学校でも、そのように習ってきたかも知れません。そしてもちろん、それは間違いではありません。しかし、今日私たちがテキストとして読んだ物語と重ね合わせてみてください。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」(37〜39節)。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。このような言葉を読むとき、私は「ああキリストは強盗に襲われた旅人として、私たちに向き合っておられるのだ。そしてあのよきサマリア人のように接することが求められているのだ」と思うのです。
 主イエスはよきサマリア人のたとえ話をされた時、「わたしの隣人とはだれですか」という問いをひっくり返して、「誰が追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問い返して、質間者が「その人を助けた人です」と答えると、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われました。ここでもそういうことが問われているのだと思います。 「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」(34節)という言葉があります。彼らはすでに祝福を受け、天地創造の時から彼らのために御国が用意されていた、というのです。
 主は私たちのためにも、私たちが生まれる前から、天地創造のときから御国を用意してくださっています。私たちのためにも一心に愛を注いでくださいました。私たちのすべての苦しみをすでに経験され、共に担ってくださいました。私たちのためにも十字架にかかって死んでくださいました。この事実をしっかりと見つめ、恵みを感謝するときに、私たちも打算を超えた愛に生き始めることができるのではないでしょうか。そうした主の姿、また神の御心を心に留め、私たちもまことの愛に生きる者となり、生きたイエス・キリストと出会いましょう。そのようにして始めて、私たちの世界は少しずつ変わっていくのだと思います。

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