「飼い葉桶に宿られた御子」
2004年12月24日
横浜港南台教会クリスマスイヴ賛美礼拝
小井沼眞樹子
今日の世界の状況
 連日世界の各地では殺し合いが続き、日本では理由なく他人のいのちを奪ってしまうひどい事件が跡を絶ちません。このような世界の悲惨のただ中にあって、いま私たちは一体どこに立って、誰と共にクリスマスを祝おうとしているのでしょうか?  クリスマスを祝う習慣は、世界中に広まりました。しかしクリスマスの本当の意味が忘れ去られてしまって人々の都合の良いように利用され、クリスマスが使い捨ての容器の一つになってしまっているような気がしてなりません。そうでないクリスマスを過ごすために皆さんは教会へ来られたのだと思います。

クリスマスの物語
聖書に語られているクリスマスの物語は、不思議な物語です。信じがたい話、人間の理解を超えた内容ではないかと思う方もおられるでしょう。  これはテレビなどが行う事実のレポートでもなければ、ただメルヘンとして造られた美しい物語でもない。これは一番最初にイエスをキリストと信じた人々から受け継がれてきた信仰のメッセージです。いつの時代でも、どこにあっても読む人たちの置かれた現実の中で、力を受けて立ち上がらされていく、そのような普遍性を持ったメッセージがこの中に秘められています。  まずマタイの方では、イエスの誕生は「神が私たちと共におられる」ということを証するものだと告げています。「神が私たちと共におられる」というメッセージは暗闇の中でうずくまっている人々に、希望と力を与えてくれます。  ルカの方は、神の御子が、人間の住む場所に生まれたのではなく、なんと馬小屋に生まれて飼い葉桶の中に寝かされたと書いています。  ルカの物語の中でキーワードは「飼い葉桶」―3回出てきます。  「飼い葉桶」のイメージ:片隅、隠されているところ、暗がり、弱さ、貧しさ、人の知恵を越える意外性。  神の御子は飼い葉桶に宿られ、まっさきに羊飼いに告げられた。彼らは立ち上がって出かけ、そして御子を探し当てた。この羊飼いが他の人々に伝えた、とルカは語っています。

ブラジルで体験したクリスマスのエピソード

@ペドローゾ共同体の何も持っていない人々
 ブラジルは非常に貧富の差が大きい国です。  私たちはサンパウロの中心地に住んでいますが、普通の生活の行動範囲の中で、いつも路上に生きている人々に出会います。とても心痛む思いですが個人的な関わりを持つことはできません。けれど何か私が出来ることはないかと思い、ペドローゾ共同体という路上生活者シェルターで、ささやかな奉仕ですが、毎週1回、数人の女性たちとミシンかけをして簡単なバックを作る時間を持ってきました。  何回かそこで行われるクリスマスに参加しました。  「・・・宿屋には彼らの泊まるところがなかった」と聖書が読まれます。すると「おれたちと同じだ・・・」と聞いている人々は心から共感します。  ここで上演されるキリスト降誕劇では、幼子イエスの役をするのは本当に路上で誕生した赤ちゃんです。ときには黒いこどもであることも。羊飼いも博士たちも、羊や牛や馬もみんながその子の誕生を喜び、神の子として拝むのです。お母さんは本当に嬉しそうです。  そこに専属のサムエル牧師がイザヤ書を引用して彼らに問いかけます。「暗闇の中を歩む民は、大いなる光を見・・・」  * みんなにとって暗闇ってなんだろう?  するとすぐに答えが返って来ます。誰も恥ずかしがったりしません。ブラジル人はみんな堂々と自分の意見を言います。  殺人、暴力、病気、失業、麻薬、飢え、孤独、寝るところがないなどなど。自分の生活の現実の苦しみを表現します。  * では光とはなんだろうか?  愛、喜び、希望、平和、親切、やさしさ、食事、家、健康、家族、・・・誰もお金とは言わなかったことが印象的でした。  クリスマスの話を聞いて、彼らは本当にイエス様に親しみを感じ、喜び、信じます。歌を歌い、自作の詩を朗読したり、寸劇をしたり、会場は熱気であふれていました。  サムエル師の言:「彼らは何にも持っていないけど、強い信仰を持っています。イエス様の話を聞くと、元気を出して辛い現実を生きていこうとします。」  どうしてイエス様が家畜小屋の飼い葉桶に寝かされなければならなかったのでしょうか?  答えは明白です。神様はもっとも下にいた貧しい人々、蔑まれた人々から救いを始めたかったからです。寒い冬の夜に野宿していた羊飼い、物語では美しい光景ですが、野宿の現実は危険に満ち辛く厳しいものだったに違いありません。彼らは実に素直に天使のお告げ聞いて、すぐに体を動かしていきます。そして探し当てる。彼らはどうして家畜小屋の飼い葉桶を探せたのか。彼らだからこそ探せたのではないか・・・神様の配慮はすごいと思います。けれど飼い葉桶は王様や金持ちや偉い人たちには行きにくいところ、つまずきの石となったにちがいありません。羊飼いの道案内がなければ、決して自分では探し当てられない場所だったといっても良いかも知れません。  イエスの誕生は、人間を二つに分けると聖書に書かれています。御子の誕生を喜び神を賛美する人々と、反対して御子を抹殺しようとする人々と。現代世界の言葉で言えば、いのちを愛する神様を信じて隣人と共に生きていく側か 権力やお金を偶像視して弱肉強食の流れに加担していくのか。

Aクリスマスのお弁当
 サンパウロでは12月24日の晩は、家族が集まってクリスマスをお祝いするという習慣になっていて、教会ではこのような賛美礼拝をしません。私たちは家族が近くにいませんから、この日は家庭を開放して、一緒にクリスマスを祝う家族がいない信徒や、誰でもそういう人を招いて、家庭クリスマスの夕べを持ってきました。何人くるか分からないので、ごちそうはいつも沢山作ります。そして、食べきれない分は,パックに詰めてお弁当にして、翌日町の中に出て歩いてみます。路上でそのお弁当を食べてくださる誰かに出会います。  ある年、6つのクリスマスのお弁当を抱えていました。一つのグループに出会いました。男女5人が仲間として一緒に暮らしているようでした。黒い犬もいっしょでした。残った一つを持って、どこに行ったらもう一人に出会えるだろうかと当てもなく歩いていきました。少し歩くとふと道路の向こう側に、うなだれてすわりこんでいる男の人が目にとまりました。はっとして、向こう側にわたり、声をかけました。  「セニョール、私の作ったクリスマスの食事を召し上がってくださいますか?」  するとその人は目を上げて、本当に嬉しそうな顔をしてうなずき、「ありがとう!」と受け取ってくださったのです。その表情を見て、この人がどんなにお腹がすいていたかよく分かりました。空腹で歩けなくなってそこにへたり込んでいたのでしょう。  その場から立ち去りながら「あぁ、よかった!」と思った瞬間、涙がぼろぼろとあふれてきました。その瞬間、私の心の底から突然わき起こったのは、「神様、罪深い私を赦して下さい」という祈りでした。そして、全身全霊でイエスさまに従って生きていきますと、そういう信仰の思いでした。この空腹でうずくまっていた一人の人とのふれあいを通して、イエスの十字架の赦しと恵みが生き生きと私に迫ってきたのです。理屈抜きにそういう体験でした。

飼い葉桶に御子が宿られる
 マタイ25:34に飢え、乾き、病気、宿無し、牢獄にいる人々の中に、イエスが存在しておられると書かれています。「これらのもっとも小さな人々にしたのは・・・」クリスマスの日に私が出会ったのも、小さな人となったイエスだったと言って間違いないと思います。そういうふうにして、具体的なふれあいの中で真に悔い改めと回心が起こり、信仰が新しく力を与えられていくのです。今日も、人の目に隠されたところで苦しんでいる小さな人々を飼い葉桶として、御子は誕生されています。  今晩、神様はここにおられる皆さんに、幼子イエスをいのちのパンとして差し出しておられます。さぁ食べてください。ありがとう、と心から喜んで受け取ると、神様はきっと涙をぼろぼろ流して、ああ良かったと喜ばれるでしょう。そして、このパンによって私たちの心の深いところの飢え乾きが満たされるのです。私たちの苦しみ、暗闇、私たちの内なる飼い葉桶にもイエスが宿られると言い換えられるでしょう。内にも外にも、イエスが宿られる飼い葉桶は相通じています。苦しみを負う隣人のいのちと結びつく時、自分が本当にありたい姿、本当の自分になっていくのだと私は思っています。  2004年のクリスマス、いのちを愛する側に与して、小さな人々と一緒に生きていく歩みを一歩踏み出しましょう。

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