「母の故郷の国で」
2004年7月17日
NCC在日外国人の人権委員会主催
「在日ブラジル人を知るつどい」 開会礼拝説教
於・聖公会 神田キリスト教会
松本敏之
創世記28章10〜17節
アブラハム物語は移住者の物語
 私は1991年より1998年まで7年間、日本基督教団から派遣された宣教師として、ブラジルで働きました。最初の4年半はサンパウロにある日系人教会(サンパウロ福音教会)の牧師として、後半の2年間は、ブラジル・メソジスト教会に派遣されて、ブラジル北東部の熱帯海岸地域のレシフェ・オリンダという町の、貧しい地区の牧師をしました。日系人教会での働きはほとんどすべて日本語でしたが、後半の2年間は、説教も聖書研究もすべてポルトガル語でした。  今日は特に前半の日系人教会での経験からお話をします。サンパウロ福音教会で、私は創世記の族長物語、すなわち、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフの物語を、教会の人々と一緒に丁寧に読んでいく機会が与えられました。日本からブラジル移住した人たちのコンテクスト(文脈)でこれらの物語を読むと、それまであまり考えたことのないことに、いろいろと気づかされました。  神様の召命に従って「行き先を知らずして」出て行ったアブラハムの物語は、まさに移住者一世の物語です。ブラジルへ移住した人と二重写しに見えてまいります。

サラの埋葬
 たとえばサラの埋葬(創世記23章)。アブラハムはサラを埋葬するための土地が必要になり、その土地を譲ってくれるように、現地の人に頼みます。その持ち主エフロンは、「お金は要らない」というのですが、アブラハムは「どうしても払わせてくれ」といってききません。結局、その持ち主がぽろっと口にした値段、銀400シェケルは相場よりも随分高いものであったようですが、それをさっと即金で支払うのです。アブラハムには、この時、エフロンの好意を疑っていたわけではないと思います。しかしいかにも外国で長く寄留者として生きてきた人間らしい仕方だと思います。エフロン自身は、本気でそう考えたとしても、それぞれ次の世代、いやその次の世代になると、もうどうなるかわからない。そこまで考えてしっかりした取引、契約をしなければならないのです。外国でよりどころを持たない人間が、何かしらを手にして生きていくとは、そういうことなのです。フランスで20年以上、外国人として暮らしていた森有正が、このことについて、深い洞察を示しています。  「一人の人間がよその国へ行ってそこで生きて、そこでとにかく何かしたいと思っている場合、全く同じことがここで出てくるのです。……アブラハムのお墓の一件は、アブラハムがそれまでにどういう生活を異邦人の中で送ってきたかということを一挙に明らかにしてくれる。……それは、決して人がわたしを迫害するという意味ではない、もっと深い問題であります。よその国の者であり、また寄留者である、ということが何であるかということを彼は徹底的に知っていました。ですからこの物語が出てくるのです」(『アブラハムの生涯』より)。

リベカの結婚−花嫁移民
 また息子イサクの結婚に際して、アブラハムは、どうしたでしょうか(創世記24章)。彼は「この土地の女性ではだめだ。自分の故郷から来た人でなければだめだ」と言い張って、わざわざ僕に息子の嫁探しに行かせる。これなどはまさに日系移住者一世の発想と同じです。他のことは、どんなに親しくブラジル人とおつきあいしていても、「嫁はガイジンではなく、日本人でなければだめだ」と言い張ってきかない。日系移住者はブラジル人のことをガイジンと呼びます。アブラハムも、もしかして土地の人のことを、異邦人と呼んだのでしょうか。  そして当のお嫁さんリベカは、まだ自分の夫になる人、イサクと会ったこともないのですが、結婚を決断して故郷を離れます。この話など、私は、ブラジルに行くまでは「遠い昔話。現代ではありえない」と思っていましたが、そうではありませんでした。私が働いたサンパウロ福音教会の中にもそのように写真1枚と履歴書だけで、結婚を決意して、日本から遠いブラジルへ嫁いで来た人がありました。「花嫁移民」と言います。リベカも、まさしく花嫁移民と呼ぶことができるでしょう。

ヤコブ−二世半
 さて今日はヤコブの物語の一部を読んでいただきました。アブラハムは典型的な移住者、一世の生涯を送りましたので、彼から数えると、ヤコブは移住者の孫、三世です。祖父の移住先は、すでに彼の故郷になっていました。ただし母リベカはアブラハムの故郷から「花嫁移民」として嫁いできた一世ですので、母方から言えば、ヤコブは二世です。こういう人は移住者言葉で「二世半」と言います。  ヤコブは兄エサウをだまして、長男の権利を奪った上、長男が受けるはずの父の祝福までだまし取ってしまいました。ヤコブは怒りと殺意に燃えているエサウから逃れていきます。どこへ逃げたのかと言うと、全く親戚がいないところではなくて、お母さんの故郷の国へ行くのです。このことは、今日の日系二世、三世の人たちの姿と二重写しになります。彼らも故郷の困窮を逃れて、親のふるさと日本へ向かうのです。  ヤコブは、結局、リベカの兄ラバン(叔父)のもとで働くことになります。しかしここでだまされるのです。最初は妹娘であるラケルをめとるために、7年間働くという契約をするのですが、7年後、ラバンは契約を守りませんでした。先に姉娘レアを嫁がせ、ラケルのためにはあと7年働くように言うのです。14年後、無事にラケルをめとりましたが、ヤコブはその後、さらに7年、ラバンのもとで働くことになりました。  このことも今日の日系ブラジル人の状況とよく似ています。親のふるさと日本に期待をいだいて、それを頼りに遠い国ブラジルからやってきたのに、叔父ラバンの対応は必ずしも暖かくない。そこで自分は「よそ者だ」ということを強く感じるのです。そして自分の弱い立場を見透かされて、不利な契約を結ばされる。時にはだまされる。契約不履行になる。「いやならやめろ」と言われる。泣き寝入りの時もある。  しかし彼はその生活を20年間耐え抜いていくのです。そして彼は新しい人間に作りかえられた。故郷では兄をだます人間であったのが、だまされる立場に身を置くことによって、本当に神様に祝福された器へと成長していきました。

故郷を離れて神と出会う
 そのようなつらい日々を、彼はどのように耐えることができたのでしょうか。私は、それが、今日、読んでいただいた創世記28章の出来事ではなかったかと思うのです。彼は住み慣れた故郷を逃げて走りに走り、とある場所、野原で力尽きて野宿することになります。彼はそこで不思議な夢を見るのです。「先端が天にまで達する不思議な階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創世記28:12)。そして主が傍らに立って、語られました。 「わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。……見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創世記28:13〜15)。  ヤコブは眠りから覚めて言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(16節)。ヤコブは地の果てのようなところに来たと思っていました。こんなところに「我が家の神」はいないと思っていました。ところが、その「地の果て」でまことの神様と出会ったのです。「ここは何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ」(17節)。その時、ヤコブは初めて、神様と深い意味で出会いました。アブラハム、イサクの神は、この時、ヤコブの神になりました。  人口の95パーセント以上が少なくとも名目上クリスチャンである国、ブラジルから異教の国日本へやってきて、多くの人がこれと似た経験をしています。もともとクリスチャンでしたが、それほど熱心な信者ではなかった。「家の宗教」。しかし地の果てで、その神様が自分に出会ってくださった。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここは、何と畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。ここは天の門だ。」

ラバンの国に生きる私たち
 さて、私たちはいかがでしょうか。ラバンの国に生きる者として、ラバンを頼ってやってきている甥や姪をどのように迎えるのでしょうか。ラバンがヤコブにしたように、ひどい仕方で迎えていいのでしょうか。私たちは、いかに彼らのことを知らないか、無関心でいるかを思います。もっともっと日本に住んでいるブラジル人に触れることは、私たちにとっても、決して無意味なことではありません。それは私たちを豊かにしてくれることであります。今日の「在日ブラジル人を知るつどい」も、そのような出会いの時になればと、願っています。

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