(小井沼國光宣教師 追悼記)

「こころ深く冬を生きて」
『若木99号』(2007年1月7日発行)掲載
小井沼 眞樹子


夫がこの世からいなくなって三ヶ月が過ぎた。たった三ヶ月、しかし、共に暮らした人生の日々は、もうずっと遠い過去のことになってしまったように思われ、一日の時間が濃密な内容で私の存在そのものをいっぱいにしながらゆっくり流れていく。来る日も、来る日も、結婚生活三十五年間を初めから繰り返し思い巡らしていた。
 池袋西教会にやせた背の高い慶応の学生が現れたのは、私が二年生の時だった。当時青年会には早稲田の学生が数人いたが慶応は私一人だったので、すぐ友だちになった。そのうち、二人に青年会の会長と副会長の役が回ってきた。その頃、教会の中でも紛争の嵐が吹き荒れていて、さんざんもめた挙げ句、私たちの代で青年会は解散してしまった。彼は知識が豊富で冷静な考え方をするが、激しい口論には殆ど参加できず黙りこくってしまう。嫌気がさすと、青年会長なのにぱったり教会に来なくなった。彼のそんなところが妙に気になり、この人には私の手助けが必要だと思うようになって、やがて結婚へと発展したのだ。明確なプロポーズの言葉も聞いていない。聞く前に雰囲気でそうなっていった。
 そうか、三十五年間このパターンをやってきたのか、と今更ながら納得した。
 若い時代の國光は授業にも出ず本ばかり読み、聖書も熟読して、彼の部屋に友人たちが集まるといろいろ話をして聴かせてくれたと、学生寮時代の友だちから聞いた。心根の優しい、物静かな人だったとも。あぁ、そうだった、と私も改めて思った。
 彼は優しい夫であり、良い父親だった。よく家事や育児の仕事を分担してくれた。女性の生き方への理解も時代の先端を行き、私が自立的に生きるように応援する姿勢でいてくれた。しかし、実際は子育てに加えて私の母と姉の介護生活が長く続き、私には自分なりの仕事を追求する余裕がなかった。その間、彼は家庭の窮状によく耐え、協力しながら共に生きてくれた。
 長く苦労をかけた日々からついに解放されると、今度はブラジルへの転勤が私たちを待ち受けていた。ここでブラジル民衆と堀江神父との出会いは運命的なものだった。このブラジル駐在の五年間が、私たちの人生の分かれ道となった。
 ブラジル宣教生活の十年間、國光は孤独に耐えながら、持ち前の知性でブラジルに関する貴重な情報を本にまとめて後世に残した。思いもかけず難病に罹り苦悩しながら、最後は澄み切った明るい顔をして次代のグローバルな宣教の方向性を語っていた。彼らしく冷静な判断で延命を拒否し、天に急ぎ逝った。「家族から手厚く介護されて、こんなに幸せなことはなかった」「ブラジル宣教を自由にやりなさい」と言い残して。結果として、それが私への大いなる愛情だったと理解し、胸が熱くなる。
 彼の「助け手」として私を神が引き合わされたのだ、と最近になって深く思い至った。我ら夫婦の組み合わせを通して、神はこういうことを望んでおられたのか。