小井沼國光宣教師の生涯



小井沼 國光 宣教師
大倉一郎
 故小井沼國光宣教師は1994年、栃木県栃木市に生まれ、1962年栃木ホーリネス教会で洗礼を受けキリスト教に入信しました。慶応大学経済学部を卒業後、(株)服部セイコーに入社、1986年〜1991年サンパウロ支店に勤務、その間に様々な出会い、体験を通して第二の回心に至り、牧師としての献身を決意、日本聖書神学校に学びました。その間、1971年、金井眞樹子さんと結婚、三人の子どもの父として家庭生活を送りました。1996年、眞樹子さんと共に日本キリスト教団宣教師として「サンパウロ福音教会」牧師に赴任し、10年間働きました。

 2003年頃から、腕の脱力感が現れ、2004年、「筋萎縮性側索硬化症」と宣告を受けました。2006年、後任牧師に職務を引き継ぎ、眞樹子さんと共に帰国。闘病の最中、「ラテンアメリカ・キリスト教」ネットの創設に参加、病床にあって初代世話人代表に就任しましたが、2006年8月24日、享年61歳の生涯を閉じました。

 以下は、小井沼宣教師夫妻と共に歩む会編集『サンパウロ通信』第二十一号(最終号)に掲載された眞樹子さんによる口述筆記の文章で、小井沼宣教師の絶筆となりました。

二つの夢
小井沼國光


 まず最初に、十年間、皆さんの温かいご支援によってブラジル宣教師としての任務を果たすことができましたことを心から感謝しています。単に私たちの生活を支えるだけでなく、ブラジルに関心のある何人かの人たちを招くことができ、共に旅をし、交わりの時が持てたことを特に感謝しています。
 そして、今回これが最後の報告となりますが、私個人の経験として二つのことを書き残したいと思います。
 一つは、私の人生におけるキリスト教との出会いについて、そしてもう一つは、ブラジルという異文化の中での生活とその限界についてです。


 私がキリスト教に出会ったのは一九六○年、高校三年の時でした。栃木県栃木市という古風な町並みの中で、私の家そのものも三代続いた商人の家庭でした。たまたま友人の誘いでキリスト教の教会に行きましたが、その時受けた衝撃は非常に大きいものでした。「信仰と希望と愛」という説教で、今なお毛筆で書かれたその説教題を思い出すことができます。私の育った家庭では、日本の伝統的価値観のもとで上下関係が支配し、決して本心で人と人とが関わるということがありませんでした。教会で、人が真に出会い交わる原点に愛があると知らされたとき、その新しい価値観に驚き、心を強く捉えられたのです。そして教会に行ったのが八月末ですが、わずか四ヶ月後に洗礼をうけてしまったのです。

 さらに大学入学後、その当時復刊し始めた『展望』という雑誌を通じて、森有正の「遥かなるノートルダム」というエッセイを読み、また強い衝撃を受けました。パリの中心部にあるノートルダムの付近を朝夕行き来する中で、彼はヨーロッパの中心がまさにここにあるのだと言っているような印象を受けました。

 私自身は高校時代、六○年の安保闘争のことはよく知っていましたが、社会主義の影響を受ける以上に、ヨーロッパの文化と伝統の根底にキリスト教があることを強く印象づけられました。そしてマルクス主義よりも大塚氏久雄や丸山真男などの近代主義の影響を受けました。そして大学在学中から就職後も、一度本格的にキリスト教を学んでみたいと思い続けていました。

 しかしながら、キリスト教的な雰囲気とは全く違う環境に育った私は、教会に通いつつも、牧師の語る説教に少なからず違和感を覚えていたことも事実でした。

 けれども四十代の初め、一九八六年に駐在員としてブラジルに赴任したとき、ブラジルは二十一年続いた軍事政権が崩壊した直後でした。社会はまだ混乱しており、人々が混迷の中で右往左往するのを見て、ブラジルの中にパウロ時代の奴隷制の延長としての地中海的世界を見る思いでした。そして貧富の差の中で多くの苦しんでいる貧しい人たちを見た時に、私自身、富める階層の中にいる一人として、生き方を転換しなくてはならないと思いました。そしてブラジルで第二の回心をするに至ったのです。その後、眞樹子と共に献身の道を歩むことになりました。

 四年間神学校に学んだ後、また、今度は宣教師としてブラジルで働くことになったのです。しかし、企業人から転身して牧師になったものの、私には知性主義の傾向が強くあり、教会を牧会する「牧師」としての道をスムーズに歩くことはできませんでした。

 それでもなんとか十年間の宣教生活を務めるなかで、私なりに見えてきたことは、教理的でない聖書の世界でした。具体的には、旧新約を通じて聖書の最大のメッセージは、人間の自由で平等な共同体の形成ということにあるのではないかと思います。旧約では出エジプトの出来事と多民族共同体としての古代イスラエル民族の誕生。新約ではイエスのガリラヤにおける「神の国」の福音宣教活動に中心があると思います。伝統的な教理としては、聖書の中心はイエスの十字架と復活による罪からの救いや終末論にありますが、私自身が感じたことは、貧富の差や社会的格差を超えて、いかに人々が共に生きる共同体を作るかというところにあると思いました。

 「・・・さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」 (マルコ福音書一六章七節)

 ブラジルの場合は長い奴隷生活を通じて、抑圧や差別、貧困や劣悪な生活条件などを強いられながらも、互いに助け合って生きようとする優しさ、柔軟性があります。今日、世界はグローバリゼーションの時代を迎えていますが、世界の貧富の差、民族の枠を超えて、一つの新しい共同体を作ることが求められています。私はそのことを、ブラジルの奴隷制と移民生活の歴史や社会を見ることによって学ぶことができたと思います。


 若い時代に、ヨーロッパの根底にキリスト教があることを知って以来、いつかその現場を探求してみたいと思っていました。しかし、実際、ヨーロッパならずともブラジルという現場で暮らしてみますと、異文化の中で生活するということはそう簡単なことではなく、大きな壁がありました。

 私にとって、外国で暮らす上で困難だったことは、まず言葉の問題でした。外国語の習得というのは人によって得手、不得手があります。私の場合、日本語でも日常的なおしゃべりは苦手なのに、ましてそれがポルトガル語となるとやはり難しく、ブラジル人と友だちになって意思の疎通をはかるまでには至りませんでした。では日本語が通じる日系社会で交友関係がつくれたかと言うと、これまた、移民した人たちとは生活暦を異にする上、問題意識も思考の面でも共通の土台に立てないことが多く、やはり孤独でした。教会の人たちはみな優しく温かな態度で教会活動に協力して下さいましたが、女性が多いので話題に付いていけないものを感じていたのが正直なところです。

 結局、一口に言って、日本から遠く離れた異文化の中で暮らすには、このような孤独に耐えて楽観的に生きられるタフさがなければならなかったのだと思います。

 けれども、私の場合、生来の不安症が存在の奥にあって、それが異文化への不適応を招いたのではないかと、今になって思います。それと同時に、キリスト教というものが日常的な心情の中に入っておらず、頭の中で思考するという側面が大きかったと思います。建物に例えるならば私のキリスト教信仰は二階に入ったようで、地に根ざす一階には入っていなかったということに気づかされています。そうした状況の中で、今回の難病にかかり、自分の限界というものを直視せざるを得ませんでした。

 時代はグローバリゼーションの下、世界中で貧富の差が拡大し、弱肉強食の世相が支配しているときに、今後ますます、イエスの目指した「共に生きる関係性」(=共同体)を求めて働かなければなりません。しかし、私自身はすでに人生の末期にさしかかっており、なすすべもありませんので、後に続く人たちにゆだねていきたいと思います。

 イエスが「神の国」の福音を説きながら、わずか三年で時の権力者に殺されてしまったことを思うと、私もいま病の床で死を見据えながら、イエスの姿が大きな慰めであり、また希望へと導いているように感じています。最後に、六十一年の人生が守られ導かれてきたことを満足し、神に感謝しています。