ブラジル滞在記
2006年11月
大久保徹夫
ラ・キ・ネットの事務局、会計を担当しております。
大久保徹夫と申します。

自己紹介
 神奈川県の西部にある日本基督教団大井伝道所の会員です。私は昨年(2005年)の10月に60歳の定年を迎えました。大学での専攻は機械工学だったのですが、就職してからソフトウェア開発、特殊なコンピュータの構造設計などを担当し、管理職となってからは技術企画とか総務畑とか、いろいろドサ廻りをしてきました。

 6年前くらいにブラジルに1ヶ月くらいの旅行に行った際に、小井沼牧師夫妻と知り合い、ブラジルの魅力と小井沼夫妻のされていることに触発されて、このラ・キ・ネットの事務局・会計を担当することになりました。今はこの事務局と、4年前に脳挫傷の怪我をして入院中の妻桂子の介護、大井伝道所の役員がメインの仕事です。


今回の私の目的
今まで2回ブラジルを旅行していますが、いずれも観光が目的でした。今回小井沼眞樹子師が、國光師の召天後所用でブラジルを訪ねるというので私も同行させてもらうことになりました。

 特に私は北東部(ノルデステ)には初めて訪問します。今まで小井沼宣教師夫妻や、その地を訪れた日本の牧師たちが書かれた報告記を読んでいましたが、「百聞は一見にしかず」の体験をしてきたいと思います。実際かの地の人々と出会い現実の状況を見聞きして、一人の日本人がどのように感じ、どういう印象を受け、何を考えたかなどを、リアルタイムで率直に伝えたいと思います。

 また併せて、今回の経験をラ・キ・ネットの事務局としての私の役割に反映させて行きたいと考えています。
日程
[ブラジル滞在記 1](2006.10.9)
[ブラジル滞在記 2](2006.10.10)
[ブラジル滞在記 3](2006.10.11)
[ブラジル滞在記 4](2006.10.11)
[ブラジル滞在記 5](2006.10.12)
[ブラジル滞在記 6](2006.10.12)
[ブラジル滞在記 7](2006.10.13)
[ブラジル滞在記 8](2006.10.14)
[ブラジル滞在記 9](2006.10.15)
[ブラジル滞在記 10](2006.10.16)
[ブラジル滞在記 11](2006.10.16)
[ブラジル滞在記 12](2006.10.17)
[ブラジル滞在記 13](2006.10.16)
[ブラジル滞在記 14](2006.10.17)
[ブラジル滞在記 15](2006.10.19)
[ブラジル滞在記 16](2006.10.22)
[ブラジル滞在記 17](2006.10.23)
[ブラジル滞在記 18](2006.10.24)
[ブラジル滞在記 19](2006.10.25)
[ブラジル滞在記 20](2006.10.27)


日程
10/8 夕方 JL048 成田
↓ (NY経由)
10/9 朝 サンパウロ
10/9〜
12
スザノ市 森本さん宅滞在
10/13〜
16
サンパウロ→レシフェ→バスでジョァンペッソアへ
10/16〜
20
ジョァンペッソア→レシフェ、オリンダ
10/20 サンパウロ
10/21〜
22
サンパウロ福音教会に滞在
10/23〜
25
サンパウロ→ロンドリーナ→フマニタス慈善協会(佐々木神父)
10/25 ロンドリーナ→サンパウロ→サンパウロ福音教会に滞在
10/26〜
27
サンパウロ→スザノ市 森本さん宅滞在
10/27 深夜 JL047 サンパウロ
↓(NY経由)
10/29 午後 成田
旅行行程図 クリックすると拡大します

[ブラジル滞在記 1](2006.10.9)
 今朝(10/9)予定より一時間遅れの8時半にサンパウロに着きました。私も眞樹子さんも元気です。空港には私を森本さんが迎えに来ており、眞樹子さんに紹介しました。眞樹子さんは旅慣れており、そのままタクシーでマツバラホテルに行かれました。私は森本さんの車でスザノ市にある森本さん宅へサンパウロから30分で行きました。

 今、日本と丁度12時間ずれているので時計をいじらなくて済み、快適です。サンパウロの気温は20度くらいで日本と変わりありません。只、朝夕は15度くらいになり寒いこともあるようです。今年の冬は雨が少なかったようで北東部やアマゾンも記録的な小雨だったそうです。森本さん夫妻の写真を添付します。
森本さんご夫妻 クリックすると拡大します
森本さんご夫妻
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[ブラジル滞在記 2](2006.10.10)
10月10日が始まりました。

 ブラジルの夏時間は例年10月の第2日曜日に始まるのですが、今年は10月1日の大統領選挙で、現職のルーラ大統領が過半数票を獲得できなかったため29日に決戦投票することになり、混乱を避けるために11/5開始に変更になったそうです。ブラジルの選挙制度は正当な理由なしで投票に行かないと罰金を課せられるので、投票率は非常に高い。

 大統領選挙戦もいよいよ終盤を迎え、当初優勢と見られていたルーラ陣営が対立候補の前サンパウロ知事アウクミン候補の嘘のうわさを広めようと170万ヘアル(1ヘアル約50円)を渡すところを押さえられて、第一回目の公開討論で指摘され、苦況に立っているようです。  
大統領選挙について報じる新聞 クリックすると拡大します
大統領選挙について報じる新聞
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[ブラジル滞在記 3](2006.10.11)
ブラジル人家庭の普段の食事は質素です。  私が森本さん宅で食べた最初の食事はフェジョン(ブラジル式豆ご飯)とハム、パン、ジュース、コーヒーでした。でも簡単でもフェジョンは毎日のメニューなので、その家の味付けがあり、なかなか深い味があります。

 また、果物が安くておいしいので各種の手絞りジュースやジャッカと言う大きい樹の実の種を食べたり、町ではサトウキビをその場で絞った汁にレモン汁を混ぜたジュースや椰子の実を大きな刀のような物で穴を開け、ストローで中のほの甘い水を飲むとか、トロピカルな味に満ちています。 こちらに居ると自然にゆったりとした気分になって来ます。

 
大きな実がジャッカ。これを割って中から梅干し大の実を沢山取り出す クリックすると拡大します
大きな実がジャッカ。これを割って
中から梅干し大の実を沢山取り出す
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[ブラジル滞在記 4](2006.10.11)
今日はサンパウロの普通の人が使うバスや鉄道の話をします。

 鉄道は東方向(リオデジャネイロ方向)に主に伸びています。サンパウロ中心街にはメトロが縦横にあって日本程ではないですが結構便利に使えます。  スザノ市はサンパウロの東方向に50キロくらいのところにある人口20万くらいの都市です。昨日(10/10)スザノからまずバスに乗りました(添付写真)。いろいろな方向の路線バスがあり、地本の人と一緒でないと利用は難しいと感じました。私は森本さん宅の使用人のイザッキ(イサク)と一緒だったので何とか乗れました。均一料金で75円くらいです。スザノ駅まで10分程で着き、電車に乗りました。

 電車は6両編成で頻繁に出ていますが時刻表は見当たりませんでした。車内はそこそこ混んでいますがその間を縫うようにチョコレートやガムの物売りが大声で行き来していました。途中2回程乗り換えてメトロの駅に接続し、トータル1.5時間程でサンパウロの中心街に着きました。メトロも含めて120円程でした。電車は事前の調査さえしておけばポルトガル語があまりできなくても利用できるかなと思いました。  その後、メトロのパライーゾで降りてサンパウロ福音教会まで行きましたが、今日は何も言っていなかったのでそのまま通り過ぎ、小井沼夫妻がよく行っていたと言うイビラプーエラ公園に行きました。

 
スザノから乗ったバス クリックすると拡大します
スザノから乗ったバス
イビラプーエラ公園で クリックすると拡大します
イビラプーエラ公園で
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[ブラジル滞在記 5](2006.10.12)
 ブラジルには台風と地震がありません。
 ブレートテクニクス理論による地震の巣であるブレート境界は大西洋の真ん中とアンデス山脈を走っており、ブラジル国内にはありません。ですから国土の殆どが平原で、建物の構造は驚くほど簡単で、ブロックを積む感覚で2〜3階建ての家が作られています。日本に多い木造の家は皆無です。そういう訳で例えば日乾し煉瓦でも素人が家を造ることが可能になります。

 
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[ブラジル滞在記 6](2006.10.12)
 毎年10月12日はアパレシーダの祝日兼子供の日です。
  約300年前の秋、漁師が聖母マリア像を網で引き上げたが今まで捕れなかった魚がそれ以後沢山捕れるようになり、黒い聖母として祭るようになった。その聖地はサンパウロとリオの間にあり、この日には数十万人の人がお参りに来るそうです。   普通の家庭では子供にブレゼントして、子供中心の一日を過ごすようです。今年はこの日が木曜日に当り、金を休めば4連休になります。いつも激しい渋滞になるサンパウロのパウリスタ通りや5月23日通りはスイスイと車が通っています。   ちなみに、これから年末までの祝日は11月2日の諸聖人の日(召天者記念の日)、11月15日の民主主義の日(ブラジルが王政から共和制に変わった日)、12月25日のクリスマスです。   今日、私はサンパウロ福音教会に移動しました。

 
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2日前に来た時、イザッキを教会の前で撮ったもの
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[ブラジル滞在記 7](2006.10.13)
 今日は沢山の事があったが大切なことを一つだけ記します。
レシーフェからジョアン・ペッソーアに着き、6時ころイエズス会の神学校に着いた。食事を数名の若い神学生と共にした後、神学生の教育担当のロベルト神父と話す機会が与えられた。
  私の名前がブラジル人には分かりにくいとの事でチァーゴ(ヤコブ)と言う洗礼名?を与えられた。その後、拙いポルトガル語と英語混ぜこぜでラキネットの説明をした。その後、いろいろ話したがロベルト神父から「交流が大切で、日本から2〜3ヵ月、一人の人を出して、一つの共同体(コムニダージ)の活動に参加しながら、こちらの一人の神学者例えばコンブランのような人に付き添ってみたらどうか?」との進言があった。   また、「私たちは社会正義の戦いを教会の外に置くのではなく、内に置く。その課題はいろいろある。教育、就職支援、家庭崩壊/離別、暴力、麻薬・・・。どれも大きすぎて解決の付かないものだが政府のやり方とは違った教会ならではの、心の持ち方/信仰を基本にして進めないと解決しないと考えている」。
  こちらでは今、極貧の人の生活の自立を勧めるためにゴミのリサイクルのプロジェクトが立ち上がりつつあり、その生活自立の希望を与えるために正に教会としての活動意義があるとのことだった。
  他にもいろいろ話したが別に報告します。こちらでの宿は神学校のゲストルームです。

 
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真ん中がホベルト神父、左が我々の受入担当のアンドレ神学生、右が眞樹子師
(イエズス会神学校内で)
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[ブラジル滞在記 8](2006.10.14)
 今日はイエズス会の活動の現場を見させて頂く日です。
 簡単に歴史的背景を言うと第2バチカン公会議(1961〜63)で教会は貧しい人と共に歩むという方針が採択された後、キリスト教基礎共同体がブラジル全土に多数生まれた。現在、このカトリック教区(パロキア)には11の共同体があり、全体の人口は46,000人くらいになる。その中でも大きい共同体であるパードレ・ゼー共同体を午前中見学した。
 この共同体の人口は約7,000人、所帯数700〜900で増えている。もともと滞在記#7で述べたように生活と信仰を一緒にして住民と共に自主的に形作った組織で、有っても無きに等しい政府や自治体への依存心は少ない。地域の中心に教会があり、その横に堀江神父の時代に日本の教会も協力して建てられた大きい集会所がある。今日の案内をしてくれるマルレーニさんに連れられてそこに行ったところ、中高生くらいの女の子が4人、スープの材料の野菜を切っていた。毎月2回ある食事サービスの日で、50家族分が作られていた。献金、献物によって支えられている。
 次にダルースさんの家を訪ねた。ダルースさんを始め38家族が病気の人の家庭の面倒を見る奉仕活動をしており、案内をしてくれているマルレーニさんもその一人。この地区の半分以上の人が失業しており、缶や段ボールのリサイクルで食べている人も多い。
 ダルースさんは41歳。午前中働き、午後は奉仕活動、夜はやっと学べるようになったので、高校のパソコンの勉強をし始めたところ。今のルーラ大統領になって、16歳までの子供には月15ヘアルの援助が出るようになって、一息付いている家庭が多いとのこと。
 彼女の長女夫婦と1歳半の女の子がいる。この辺りでは15〜20歳くらいで子供を作ることが多く、大家族で10人くらいは普通だそうだ。このような共同体の相互的な活動には常に教会の支援があり、住民の教会への信頼はとても厚く、自治体の猫の目のように変わる政策の比ではない。
 神学生もよく地域を廻ってニーズを吸い上げている。今日の夜にはミサがあり、200人くらいが集まった。そこで眞樹子さんと私は自己紹介をさせられた。

 
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パードレゼでマルレーニさんと共に

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左側がダルースさん、右がマルレーニさん
(ダルースさんの家で)
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[ブラジル滞在記 9](2006.10.15)
 今日は教区の社会問題の会合に出たのでその報告をします。
 #8で共同体の規模を記したがその中で活発な活動を担っている人は10%くらいだそうです。社会問題の例としては、#8で記したような病気の話の他、結婚問題、夫婦問題、アルコール依存症問題、リサイクル問題など沢山あるが、それぞれの問題を担当する複数の人を教区としてアサインして育てているが、そのリーダーの研修会のような会合である。
 今回で二回目だそうで、今回の内容はどうやって組織を立ち上げていくか、どの問題のリーダーにも共通な問題を話し合っていた。
 会の進行役は今年教区司祭として赴任したジュニオール神父。イエズス会の神父でもあり、フランクに話していた。全部で10ステップあり、かなり具体的なことが書かれているが、聖書の引用が随所にあり、その意味を表している。
 参加者による資料の輪読から始まり、その内容について活発な質疑が行なわれていた。輪読が終わったあと、分団に別れて議論した後、全体で集まって質疑をするという我々にも理解しやすい進め方を採用していた。
 このような問題を解決するのはあくまで住民の自主活動であり、イエズス会はコンサルティングをやったり全体の運営に力を入れている。
 日本の教会が社会問題を行なうときに非常に役に立つ方式だと思った。

 
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教区の社会問題の会合の様子
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[ブラジル滞在記 10](2006.10.16)
 今回はすこしやわらかい話題です。
 ジョアン・ペッソーアに着いた時から我々の送迎などを担当してくれているセビリーノ・マルシー夫妻の家から見た海岸方向の風景です。前の家の庭には大きな椰子の樹があり、椰子がいくつも実っている。海岸は数キロ先です。
 夫妻は最初バードレ・ゼー地区の中に住んでいたが、娘、息子を含む家族がそれぞれ仕事を得て収入が増し、今のイペー地区(中産階級の住宅街)に家を買って引っ越した。そこはイエズス会の神学校のすぐ近くで、家では長女が店を開く準備を進めている。
夫妻は50歳前半で、娘家族4人、息子とその子ども、末の娘(法科大学生)の9人家族。そのほか、子守や家事手伝いの人も数人同居して、大変賑やかです。引っ越してもいまだにパードレ・ゼー共同体の夫婦問題係りの奉仕を担っている。

 
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マルシー夫妻の家から見た海岸方向の風景
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[ブラジル滞在記 11](2006.10.16)
今日はジョアン・ペッソーアから、オリンダへの移動日です。
 それでイエズス会に別れを告げて、ジョアン・ペッソーアの海岸に行きました。以前サルバドールの海岸から大西洋を見ましたが、それを思い出しながら、新たな気持ちで大西洋を眺めることができました。そしてその雄大な景観と潮の匂いに思わず、大きく息を吸い込んで一句。
   彼の日には妻ともに見し大西洋、気持ちあらたに水果てる先見る
英俊先生が「文学館」に載せている句を味わいつつ、つい私も戯句を読んでしまいました。何ともこの一週間の疲れを癒してくれる風景でした。
 そしてその後、ホドビアリアと言う長距離バスのターミナルに行ってレシーフェ行きのバスに乗りました。一仕事した達成感と疲れで随分ぐっすり寝ましたが、ふと気が付いて外を見ると見渡す限りのサトウキビ畑。この広さに圧倒されて一句。
   キビの葉の重なりつづく地平線、民の汗飲みじっと動かず
その後、オリンダに着きました。

 
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ジョアンペッソーアの海岸
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バスの中から見たサトウキビ畑
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[ブラジル滞在記 12](2006.10.17)
 今日はアルト・ダ・ボンダージ教会の信徒リーダーをしていて、我々に宿を提供してくれているジャニの案内でブラジルメソジスト教会の第6教区長で女性のマリーザ教区長に会った。
 事前にジャニが話していたこともあって我々の活動や日本の宗教事情についていろいろ質問された。 小井沼宣教師夫妻、特に國光師の遺志もあり、集まった人からラキネットが誕生したこと、その目的などを語り、ホームページのデモなどをした。
 最後に二ヵ月に一度出しているブラジルメソジスト教会の機関誌に載せる写真を撮ってくれた。まだ誕生したばかりのラキネットにイエズス会をはじめ、このメソジスト教会など多くの組織が関心を寄せてくれているのをヒシヒシと感じた。 また、ラキネットの案内などのポルトガル語訳などこちらとの「交流」を考えるとやることがもう一つ加わったと感じた。

 
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ブラジルメソジスト教会の機関誌

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右端がマリーザ教区長、左端がジャニ
(ブラジルメソジスト教会の機関誌に載せていただく写真)
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[ブラジル滞在記 13](2006.10.16)
先週の土日(14,15)の二日間で4回のミサに参加して祝福を沢山頂いた。そのイエズス会のミサに出て気の付いたこと、感じたこと。
@カトリックのミサは説教がないと聞いていた。とんでもない。きちんとした長い説教がありました。
A讃美歌集に楽譜がなく、歌詞だけが載っている。楽譜があっても読めないからという説、メロディーは耳で覚えているから要らないという説。どちらもなるほど・・。 ダビデの頃も同じだったんだろうな。
 伴奏がギターとパーカッション。オルガンなんてない。そうか、みんながどこでも簡単に歌えるためにはその方が合理的か。 日本はちょっと教会が大きくなると、荘厳さを求めてパイプオルガンを入れたりするけど方向が反対のような気がする。
B礼拝の形式が司式者と会衆のやり取りが頻繁に変わり、ことばと応答がリアルに再現されていて、参加意識が高まる。礼拝のプロセスがよく分かる。 でもこの手順をうまくやるにはかなり訓練が必要か。
C礼拝参加者の服装がラフ。神父がGパンの上にローブをまとって、足元は草履。参加者も若い人が多いせいか、Tシャツに半ズボン、草履。
  貧しい人たちの礼拝は神父も参加者も飾らないで気持ちがいい。

 
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[ブラジル滞在記 14](2006.10.17)
 今回のノルデステ旅行で、多くの貧しい状況に生きている人びとと出会った。 日本にあっては想像することができない状況でもあり、少しでもこちらの貧しさの現実を3つの訪問先の実態を通して伝えたいと思います。
@パードレ・ゼー地区に、ノーヴァ・エスぺランサ(=新しい希望)という団地がある。 そこは普段行かない方がいいと言われている場所のようで、私たちはイエズス会のジョナス神学生が案内してくれたので訪問できました。
 ここは、以前選挙があったときに、票稼ぎ目当てで政府がこの団地(1棟4階建て8所帯×12棟)を建てて、貧しい人達を住まわせた。 しかし、選挙が終わったらそれ以上のことは何もしなかった。結局、共同体運営も何もなく、仕事も与えられず、不衛生な環境と麻薬や犯罪が頻発する地域になってしまった。 この団地の一室に住むマリア・ダ・テンニャさんを訪ねた。部屋は全部で10畳ほどのスペースをカーテンなどで区切って、居間と台所と寝室に使っている。 狭いがとても綺麗に整頓され、壁には写真などをかけ、冷蔵庫、テレビや飾り棚もあった。夫婦二人と孫娘の家族構成。息子さんは今刑務所にいるとのこと。ここも仕事は殆どないようだ。
 このような人々の状況をいろいろ神学生にも聞いてみた。仕事としては、バナナや椰子の実を取ってきて町で売ったり、ゴミを集めてきて分別して売ったりしているという話も聞いた。 子供のころからそんなことをしながら家計を助けていることも多いようだ。
Aその団地からさらに急な坂道を降っていくと、この団地からもあぶれた人びとの住むファヴェイラ(スラム)があります。さらにその下はマンギと呼ばれる湿地帯です。 その沼の近くのパウロさん宅を訪ねました。家は堀建て小屋です。家の壁は材木ではなく木の枝をたてよこに組み合わせ、その間に土を練って貼りつけ乾かして完成です。 屋根は周辺から拾ってきたトタンか屋根瓦や板を組み合わせているようです。一応電気と水は自分達で引いてきていますが、料金を払っているわけではないとのこと。 二間に別れていて、入り口から入ったところが居間。簡単な仕切りがあって、隣りはベッドを置いている。 全体でやはり10畳程度の広さ。炊事は裏庭に薪のかまどがあって、そこで煮炊きをしている。猫を数匹飼っていた。
 パウロさんと奥さんは見たところ65歳くらいに見える。4歳の孫娘が一緒にいたが、10代にしか見えない母親が赤ん坊を抱いて帰ってきた。 娘一家は別棟に住んでいるそうだ。パウロ夫妻は本当は40代位なのかも知れない。その辛い人生が歳を老けさせてしまうように思えた。 奥さんは生活苦を盛んに訴え少額の援助を懇願されたが、それはできなかった。ジョナスが言うのには、一回でもお金をあげるとどんどん依存的になって良くないからだ。 一体どんな助けがあるのだろう。足の悪い奥さんは、急な坂道を上ることも出来ないから、共同体のミサにも出かけられない。
 娘さんは愛おしそうに我が子を抱いてあやしていた。その状況によって、こんな極貧と思われるような場所に不思議な安らぎが漂っている。 大雨が降ると近くの沼が増水して家の中は水浸しになるそうだ。私は正直、声が出なかった。 Bジョアンペソアの町の東西に貨物用列車が走っている。その線路の向こう側は、パドレ・ゼー地区よりもさらに一段貧しさの度合いが大きい地区。 マンダカル(=サボテン)地区に住む、マリア・ガレーガさんはポルト・ド・トータ共同体の信徒リーダーです。 私たちを昼食に招いてくださったので訪問しました。 貧しい地区だけれど普通の住宅街にあるその家は、一軒家を2世帯で縦に半分ずつ使っている。玄関と、裏口しか外に通じる開口がなく、細長い通路のような家の中は昼間でも暗い。 そこに、無職の息子(30代)が一日中寝そべってテレビを見ている。いつも日本からの訪問客があるたびに、ロベルト神父や神学生もいっしょに昼食に招くのが彼女の大きな楽しみのようだ。 娘さんやお嫁さんも総動員して、朝から半日がかりで準備した食卓にはご馳走がずらりと並ぶ。豊かな食事をおいしく頂いた。孫たちも4人いて、とても賑やかだ。 台所兼食堂は全員一度には座る場所もないので、家族はそれぞれ別のところで食べていた。
 彼女の口癖は「家は小さいけれど、私の心は大きいのよ。だからいつでもお客さんを連れてきてね。」
 ちなみに、彼女の仕事は週に2日だけ、家事手伝いとして働いている。娘さんは子ども二人の育児の合間に、夜間、途絶えていた学校(中学3年生くらい)の勉強を再開してそうだ。 ブラジルでは、このように教育が終了できなかった大人のための夜間の勉学の機会も設けられている。 マリア・ガレーガさんの家族は彼女の信仰に裏打ちされた明るく前向きな姿勢によって困難を乗り越えようとしているように見えた。
 
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ジョアンペッソーアのファべイラ(貧民街)を訪れたとき、その家で飼われていた猫。
猫を抱いているのは、眞樹子さん。
猫の、逞しく生きる面構えと、人(眞樹子さん)への全面的信頼に、感動!
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[ブラジル滞在記 15](2006.10.19)
 18日にメソジストのアルト・ダ・ボンダージ教会を訪ねました。
 以前、我々の仲間の松本牧師が赴任されていた教会です。この地区は特に他の地区より貧しい人々の多い地区で18年前に開拓伝道が開始された。
 初代牧師は、宿をお世話になっているジャニさんの夫のアメリカ人故ディビット・ブラックバーン宣教師で、彼は最初に保育所を開設された。 そこへ案内された。2〜3歳の幼児から預かるようで朝7時から夕方4時まで預かる。お母さんはメイドさんやいろいろの仕事だが、4時に帰れない時は近所の人が引き取りに来るそうだ。 助け合いができていると感じた。
 カイシャ・デ・アグア教会のイヴァン・カルロス牧師が兼任されていて彼とジャニの案内で数家族を訪問した。 最初はトーニャさん宅。今まで18人の子を生んだが8人しか育たなかったとのこと。食べるために臨月まで働いたとのこと。大変な苦労をされた。 末っ子の女の子が紙を持って眞樹子さんに駆け寄り、鶴を折ってくれとせがんだ。何度か訪れている眞樹子さんと家族の深い繋がりを示された。
 次に行く前に、教会が将来コミュニティーセンターとしようと購入した土地を見た。縦、横、25m×56mくらいの形のいい土地。でも資金がなく、しばらくこのままだそうだ。
次に訪れた家は数家族が一緒に住んでいるが部屋数も多く、主婦(名前を聞き忘れてしまった、すみません)は部屋を建て増しており、「将来乳児を預かる施設を開設したい。 そして若いお母さんたちが働くために役立ちたいし、自分も収入を得たい」と語った。すばらしい考えだと思った。 只、この地区は高台にあるせいか、水が一日出たら、二日は出ないという悪条件があるそうだ。
 その後、教会に戻った。教会堂は90年代の終わりにアメリカからワークキャンプが来て教会員と一緒になって建てて行ったとのこと。 私も若いとき10回程ワークキャンプに参加し、かなり最初からリーダーをしていた。コミュニティーセンターの整地など、いいテーマが転がっていると感じた。
 
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[ブラジル滞在記 16](2006.10.22)
 20日にレシーフェからサンパウロに帰り、今日が22日で故小井沼國光牧師の追悼礼拝と記念会が終わったところです。 サンパウロに来て、ノルデステの地との違いに気が付かされます。
 片や狭い道に作業服の人々があふれ、バスがすごいスピードで警笛を鳴らして飛ばして行く。でも、日本の田舎にいる人々のように人は明るくのんびり、人懐こい。 そして、家では多くの人が狭いながらも親しく親密な関係を持って生活している。教会には近所から歩いて来る。
 片や、背広や小綺麗な服に身を包んだ人が多い中を車がすいすい走る。人はちょっとすまし気味に歩く。ちゃんとした高層アパートに家族単位で住んでいる。 教会に来るのもあちこち車や電車を使ってくる。都会ならどこの国にもある環境、生活だ。
 この29日が大統領選挙の決戦投票で現大統領のルーラとアウキミンが拮抗しているようだが、支持層はルーラは下層、アウキミンは中層、上層。
 ノルデステで会った人々は16歳まで月15ヘアイスを出してくれたルーラを支持している。選挙運動も街頭で旗を振ったり、家の正面に支持候補のビラを張り出すなど盛んだ。
 サンパウロでは一見選挙が行なわれているのかと思うほど、選挙関連のことを目にすることが少ない。 でもサンパウロに多い中産階級では、「ルーラは我々が収めた税金を貧乏人に分け与えて、益々彼らを怠け者にしている」と言って評判はよくない。
 こちらでは身近に貧しい(貧しくされた)人々がいて、その人達を理解しない(自業自得だと理解している)人達がいる。サンパウロの日系ブラジル人中/上層社会でもこの傾向は強い。 日系教会の傾向も同じである。 ここブラジルでは国内で議論が割れている。それをテレビ討論で対決させて分かり易くしている(どこまで事実が明らかにされているかは別として)。
 翻って日本ではグローバリゼーションで悲鳴を上げているワーキングプアー、外国人労働者、フリーター、などの弱者の声を誰がすくい上げているのだろうか?


 
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サンパウロ福音教会で説教をする眞樹子師
(故國光牧師の残した遺志を語り、ラキネット誕生を説明した)
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[ブラジル滞在記 17](2006.10.23)
 昨日(22日)の夜、中ノ瀬重之神父(通称シゲ神父)に会うことができた。
 非常に快活な方で、50代前半。こちらに来てもう30年。日本人というよりブラジル人と自認している。 日本に来た時に話をしてくれないかと言ったら「ポ語だったらいい、日本語はだめ」とのこと。誰か通訳を付けましょう。
解放の神学の最新の研究成果に基づく聖書学習運動をサンパウロの神学校で主催しており、休暇をつくって他の地方へも飛んでいくそうだ。 ブラジル人だけでなく、世界各国からブラジルに来て働いている神父、シスター、神学生や信徒なども受け入れて、民衆のための聖書司牧のリーダーを養成している。 そのセンターを一廻りして説明してくれた。
その後、日系3世でこの神学校でポルトガル語を教えているアリスさんが夕食に招いてくれ、皆で行った。ブラジル食だったが最後に味噌汁や漬物、梅干しまで出て嬉しかった。
その時、たまたま私の誕生日が23日だったので、その話をしたら、急遽誕生日前祝い会となってしまった。

 
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左端がシゲ神父、右端がアリスさん
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[ブラジル滞在記 18](2006.10.24)
 佐々木神父の所が電波の届かない所だったので受発信ができませんでした。蓄めていたものを発信します。

 ロンドリーナ周辺の話。
パラナ州は日本人が多い。その開拓の歴史は約百年前の最初の日本からの移住船の笠戸丸にさかのぼる。今はその後の二世、三世の時代になっている。
 佐々木神父の住むサンジェロニモ・ダ・セーハまでロンドリーナの空港から90Km、車で約一時間強。 途中、アサイ(美味しい実のなる椰子の一種)と言う名の町を通るが戦前は朝日と言う名の日本人町だった。
しかし戦中、政府から日本の名を使ってはいけないと言う指示でこの名になったとの事。
 この町には今、日系家庭が2500家族。農場主の殆どが日系。主な作物は大豆、トウモロコシ、綿など。
昔はコーヒーもやっていたが段々土地が痩せ、霜の害も加わって、コーヒー栽培は霜の来ない北の地方へ移っていった。
 今この町にはカトリック教会の他に創価学会、真言宗、天理教など日本からいろいろな宗教が入って来ている。 また、とにかくひろい。見渡す限り地平線までの農園。隣町といっても最低15Km。ある町で集会とミサをすると出掛けたがそこまで70Km。 そのくらいは当たり前のよう。佐々木神父が理事長をするフマニタスは70haの広さ。自分達の食べる分以上取れ、売っている。  さーて、今日からいろいろ見聞するぞー。

 
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[ブラジル滞在記 19](2006.10.25)
 日本でも誤解されやすい「土地なし農民の農地獲得運動」のプロセスについて、佐々木神父から聞いた。  この活動には、それを専門にやっている全国組織のNGOであるMST(Movimento da Sem Terra)が中心的に関わっている。何よりも現在ではブラジル憲法で土地の有効利用の推進は国の義務であることが定められている。  まず、周辺住民の情報などにより、農地改革の対象条件である1.広さが250ha以上、2.土地が使われていない、3.土地の税金が払われていないと思われる土地を洗い出し、INCRA(連邦政府植民農地改革局)に調査を依頼する。それと同時にMSTの各支部を通じて、その土地に入りたい農民を募集し、応募した人を集めて、対象となる土地の近くの道路脇にキャンプを張る(道路沿い数十mは政府の土地で地主のものではない)。土地の広さにも拠るが、大体100〜250家族くらいが集まる。  そして、地元の役所、警察に届け出、子供たちの学校登校/スクールバスの手配、親たちの仕事の斡旋などを依頼する。そして、10家族くらいに分け、そこから必ず男1名、女1名の代表を決め、各小集団ごとの学習会、月数度の全体会議への参加を呼び掛け、基礎共同体を形成する。そして、この活動の意味、助け合いの精神などについて学ぶ。  INCRAの調査により、この土地が農地改革の対象となると官報に公示される(ここまで来るのにキャンプ開始から一年くらい)と農民たちは対象となる土地に入って行く。一方、土地所有者は裁判でその土地が農地改革の対象ではないと争うか、政府と交渉して、値段を決め、政府に売る。  INCRAは土地を測量する。また、入った農民にはMSTがまず、抽選で小集団単位で土地を決める。その後、各小集団の家族ごとにその決まった土地のどこにするか抽選をして最終的に土地所有者を決め、政府は各家族ごとに土地を無料で払い下げる。こうする理由は既に小集団単位で助け合いの学習をやっていて、これから本格的に助け合いを実践するためである。  実際、入植しても、彼らは日雇いの農業労働はやったことがあっても、作物を一貫して面倒を見たことがない。また、土地の開墾や整地など土地が本格的に生産力を持つまでには数年掛かる。その間、MSTは彼らに農業のイロハから教え、つなぎの仕事を世話し、役所は子供たちのスクールバスの手配をし、水道、電気、下水などのインフラを整備する。 こうして、キャンプ開始から7〜8年で土地なし農民がきちんとした家を持ち、安定した収入を持つ小農園主になっていく。現在パラナ州だけでも3000家族がキャンプを張っている。  前の政権からルーラに変わったことで、これらのプロセスがスムーズに流れるようになった。アウキミンは農地改革に反対しており、もしアウキミン政権になったら大変なことになる。  佐々木神父はサンジェロニモ・ダ・セーハの労働党の支部長もしており、今大統領選挙で落ち着かない毎日を送っている。  今回、佐々木神父の案内で、キャンプを張り始めてから9ヶ月目、2年4ヶ月目で入植開始しつつある所、5年目で家も建ち、安定しつつある家族、8年経って安定して発展しつつある家族を見学できた。これらについては後日、写真/ビデオ入りで詳細に報告したい。
◆  佐々木神父も最初、このMSTの活動は土地ドロボーなのではないかと躊躇し、現在の大地主による土地所有の実態について調べて見た。  知り合いの裁判官などから聞いて分かった事は、ブラジルの土地は元々インディオの土地だったものを約500年前、ポルトガル人が来て占領し、全土をポルトガル王室のものにした。王室→共和制政府となったが土地所有は王室から共和制政府に移っただけで変わらず、支配者とそれに群がる金持ちたちは彼らの勝手で土地の所有権を証書上で決めたが、実際の所有者、利用者はそこに住んでいる人々であった。  この広いブラジルでは500年の歳月を越えて、植民地支配そのままの構造が引き継がれていることが多いし、それがブラジルの発展を阻害していることが分かってきた。それでMSTの活動の正当性が理解できた。  MSTの活動も最初は各州ごとにバラバラだったが、今から約20年前のイタイプーのダム発電所建設に伴う、住民移転問題でインディオや小農園主たちの補償がうやむやになった時、全国からMSTの活動家たちが集まり、支援したがその副産物として、全国組織が出来上がり、政府への交渉力が強まった。ということで、現在の農地改革プロセスが出来上がった。
◆  この活動に教会がどのように関わっているかですが、大抵の基礎共同体にはその最初の段階から神父たちがMSTのメンバーと一緒になって活動し、定期的にミサを行っています。キャンプを行っている所、まだ共同集会所がない所では屋外でミサを行っています。つまり、貧しい人たちの中にキリストがいるとの信仰に立ち、この人たちを助けることがキリストに従う事だと考えて活動しています。

 
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「土地なし農民」の人々の道路脇のキャンプ
道路の左側が対象となっている土地
(キャンプ開始から9ヶ月目、約160家族が参加)
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[ブラジル滞在記 20](2006.10.27)
 佐々木神父が理事長をされている、フマニタスでは現在様々な事業をしている。

 1.診療所ではハンセン病だけでなく、皮膚病一般を診ている
 2.アルコール依存症患者と麻薬依存症患者の更生施設
 3.プロポリスの製造販売
 4.鶏の卵、雛の販売
 5.農産物の自家消費(コーヒー、向日葵油、トウモロコシ・・・)用栽培と販売
 6.刺繍製品の作成、販売
 7.洋蘭の育成、販売など

そのほか、MSTの活動を側面から支援するためにプロポリスを「土地なし農民」の人々の健康維持のため、定期的に配ったり、MSTの事務所の空きスペースを利用して、近所の若い母親たちにミシン掛けを教えてこども服の授産所を作ったり・・・。とにかく、できるだけ多くの貧しい人たちの力になろうと大変な努力をされている。これらについても、できるだけ報告したい。
また、これだけのことをしていても、周りに無償でいろいろな物を配布するなどされているため、経営は楽ではないようです。心ある方は以下の郵便振替で献金くださるようお願いします。

   加入者名 : フマニタス福祉活動を助ける会
   口座番号 : 00190-3-260537
 通信欄にお名前と住所をご記入ください。
 さて、今日は27日、いよいよ日本に帰る日となり、帰り支度もしなければならないので、これでブラジル滞在中のレポートを終了します。  慣れない携帯電話での入力で疲れました。それと、私のうっかりミスで、佐々木神父の所以前で撮ったデジカメ写真を全て削除してしまいました。ファベイラの方々などに、帰ってから写真を送ってあげる約束を反古にしてしまう事、返す返すも申し訳なく、只々頭を下げるほかはありません。  これで一度、このブラジル滞在記を終了します。

 
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アルコール依存症患者と麻薬依存症の方たちの更生施設
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